なぜプリゴジンをすぐに殺さなかったのか…プーチンの政治判断のベースになった「幼少期のいじめ体験」
プレジデントオンライン / 2023年9月6日 9時15分
※本稿は、舛添要一『プーチンの復讐と第三次世界大戦序曲』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。
■「怪僧ラスプーチン」ともゆかりの祖父
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは、1952年10月7日、ソ連邦のレニングラード(現・サンクトペテルブルク)で生まれた。
プーチンが誕生したのは、約30年にわたってソ連邦を支配してきた独裁者、スターリンの治世の末期である。
スターリンは、プーチンが生まれた5カ月後の1953年3月5日に死去している。
その半世紀後に、この男がスターリンの後継者たるべくロシアの最高権力の座に昇りつめるとは、誰も予想できなかったであろう。
プーチンの父方の祖父、スピリドン・イワノヴィチ・プーチン(1879年12月~1965年3月)はプロの料理人で、ペトログラード(現・サンクトペテルブルク)の高級ホテル「アストリア」の料理長を務めた。
帝政ロシアで、怪僧ラスプーチンにも料理を出していたという。
そして、革命後には、レーニンやスターリンのためにも料理を作っていたそうである。
■傷痍軍人の父、雑役婦の母
父親はウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチン(1911年2月~99年8月)で、無神論者の共産党員であった。彼は第2次世界大戦中に戦闘で傷痍軍人となり、戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場に勤務した。
母親はマリア・イワーノヴナ・シェロモーワ(1911年10月~98年7月)でロシア正教を深く信仰していた。
雑役婦として仕事に励み、貧しい家計を助けた。
■兄2人は幼くして死亡
プーチンは両親の第3子として生まれたが、兄2人は幼くして死亡している。
長男オレグは生まれてすぐ死んだし、次男のビクトルはナチスに封鎖されたレニングラードから疎開した先で、ジフテリアにかかり、5歳で亡くなっている。
この2人の兄が死んだ後、戦後になって、マリアは41歳の高齢でプーチンを産む。
それだけに、母マリアはこの息子を溺愛するのである。
■20平方メートルの貧しい共同住宅で、ネズミをいじめて遊んだ
貧しい家庭で育ったことは、プーチンに上昇志向、権力志向を与える要因となったと考えられる。
レニングラードの住居は共同住宅で、20平方メートルの広さしかなく、台所もトイレも共用で、浴室はなく銭湯通いだった。
子ども時代のプーチンは壁の穴に棲むネズミをいじめて遊んだが、追い詰められたネズミが最後に「自分に向かってきた。私は驚き、怖かった。ネズミは私を追いかけた」と、自伝(Nataliya Gevorkyan, Natalya Timakova, Andrei Kolesnikov, “First Person:An Astonishingly Frank Self-Portrait by Russia’s President Vladimir Putin”, PublicAffairs, 2000 邦訳版『プーチン、自らを語る』〈扶桑社、2000年〉は品切れなので、入手が容易な英語版から引用する。翻訳は筆者による)で述懐している。
木村汎(ひろし)は、このときの経験が、後に権力の座に就いたプーチンの人事政策に活かされているという。
「窮鼠猫を噛む」の教訓である。
「気に入らない部下を排除するときにも、かれらを直ちに罷免しようとしない。
まず、かれらの馘を斬るチャンスの到来を辛抱強く待つ。
しかも、ポジションを完全には剥奪しない。むしろ、かれらの地位を徐々に降格させてゆく。
その間に代替ポストすら用意してやる。
こういう慎重かつ複雑な手続きや方法を講ずることによって、降格された者がプーチンに恨みをいだくあまりに、反旗をひるがえす気持ちにならないように細心の注意をはらう」(木村汎『プーチン 人間的考察』藤原書店、2015年。97p)
■小学校でいじめ、得た教訓は「強い者が勝つ」
プーチンは小学校に入っても、成績は悪く、不良少年であった。
通りでよく喧嘩をしていたが、身体が小さいので、いじめられることが多かった。そのときの教訓は「強い者が勝つ」、そして「最後まで戦うべきだ」ということであった。
プーチン少年は、小柄な身体の自分の弱さを克服しようとして、初めはサンボ、その後は柔道を習ったのである。
それは、13歳の頃(1965年)であるが、その頃には学校の成績も上がりはじめた。
■ソ連のスパイ「ゾルゲ」に憧れてKGBに
プーチン少年は戦前の日本で活躍したソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲを題材にした映画などを見て、スパイに憧れ、KGBに就職しようと思った。
プーチンの父親は独ソ戦のときに、秘密警察の一員として戦場で活躍している。
そのことも、KGBに対して親近感を持たせたのであろうが、ソ連邦で絶大な権力を誇るこの組織のメンバーとなることで、自分も強力な支えを得ることができると考えたようである。
そこで、中学校の最終学年(9年生)、16歳のとき(1968年)に、直接KGBのレニングラード支部に行き、就職の相談をする。
相手をしてくれた係官は、ここに就職相談に来たことは他言しないことを約束させ、まずは大学に入って、法律や外国語の勉強をするように勧めたのである。
プーチンは猛勉強して、1970年に、難関のレニングラード国立大学法学部に合格する。
法学部では国際法を専攻し、1975年に卒業し、念願のKGBに就職している。そのときに、就職の条件となっていたソ連共産党への入党も果たしている。
■嘘をついて難を逃れる
1984年秋には、レニングラードからモスクワに移り、KGB赤旗大学で1年間の研鑽を積む。その後、対外諜報部に配属され、1985年8月に東ドイツのドレスデンにあるソ連領事館にKGB中佐として派遣された。この地で1990年1月までの4年半を過ごす。
資本主義国ではなく、衛星国の東ドイツ、しかも首都東ベルリンではなく、ドレスデンというのは、エリートKGB職員の行く先ではなかった。
東ドイツで4年半も勤務しただけに、プーチンはドイツ語が堪能になった。
ベルリンの壁崩壊時にドレスデンの国家保安省(シュタージ)の前で大衆暴動が起こったとき、身の危険を感じたプーチンは、「自分は通訳だ」と嘘を言って難を逃れたくらいに流暢なドイツ語を話せたのである(前掲の英語版自伝、79p)。
■「性急な改革は禍根を残す」と結論
東欧諸国が総崩れになっていく事態に直面して、共産主義に固執するソ連の保守強硬派は反発し、1991年8月19日にクーデターまで起こした。
これは失敗したものの、ゴルバチョフの権威は失墜し、この危機を救ったボリス・エリツィンに権力は移行していく。
そして、その年の12月、遂にソ連邦が解体するのである。
プーチンは、ドイツの地で勤務していたため、ゴルバチョフ改革で大混乱となった祖国の状況を直接には体験していない。
しかし、ソ連の支配下にあった東欧諸国、とりわけ「社会主義の優等生国」と言われた東ドイツでエーリッヒ・ホーネッカー体制が瓦解し、それをモスクワが止められなかったことは、プーチンに大きな衝撃を与えたのである。
ゴルバチョフが行ったような性急な改革は大きな禍根を残すというのが、プーチンの下した結論であり、過激な「革命」を忌避するようになる。
■ソ連邦崩壊の悲惨さから「強い帝国ロシア」の再生を目指す
2000年のセルビアのブルドーザー革命、2003年のグルジア(現・ジョージア)のバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命、2005年のキルギスのチューリップ革命など、2000年頃から東欧や旧ソ連圏で起こった「カラー革命」に対して、プーチンが否定的な評価を下すのは、ソ連邦崩壊の悲惨さを体験したからである。
「強い帝国ロシア」の再生を実現すべきだという信念を確たるものにしたことは疑いえない。
プーチンは、レーニンやスターリンとは違って、マルクス主義のような特定のイデオロギーに固執することはなく、大国ロシアの再興のためには様々な考え方を柔軟に取り入れていくのである。
■KGBによって育まれた戦略思考
1990年1月に帰国したプーチンは、1991年8月20日、つまり先のクーデター未遂事件の翌日に、KGBに辞表を提出したと自伝にある(前掲、93p)。
しかし、いったんチェーカー(秘密警察)に入った者(チェキスト)は辞めることはできないはずであり、「休眠中のチェキスト」になっただけで、この辞表提出も本当だったかどうかは疑問である。
プーチンの戦略思考はKGBによって育まれた。
情報機関、諜報機関に勤務すると、世の中に生起する事象を解釈、解説する際に、独特の分析法を身につけさせられる。
私は、国際政治学者として、若い頃、海外の情報機関でソ連の分析に携わったことがあるが、大学での研究方法とは全く異なる訓練を受けたものである。
プーチンがレニングラードでKGB職員として仕事をしていた頃である。
私の勤務先は、「反ソ連機関」としてKGBによる破壊工作の対象となり、爆破事件で東欧出身の同僚を亡くすという悲しい事件もあった。
ソ連邦崩壊までは、私はこの海外情報機関における「研究・訓練」について、自分の身の安全のために、履歴書に記すことはなかったし、ソ連・東欧圏に足を踏み入れることも敢えて避けたものである。
■「恩師の監視役」として送り込まれた?
プーチンは、帰国後、レニングラード国立大学学長補佐官のポストに就く。
このポストにはKGB関係者が就く慣わしであった。
そして、レニングラード国立大学の教授であったアナトリー・サプチャークがレニングラード市ソビエト議長になると、プーチンは彼の国際関係顧問となる。
これが、プーチンの政界進出のきっかけとなるのであるが、実はエリツィン後の大統領有力候補であるサプチャークを監視するためにKGBがプーチンを送り込んだという観測もある。
レニングラード国立大学法学部教授だったサプチャークは、プーチンや、後に大統領になるドミトリー・メドヴェージェフの大学時代の恩師である。
それだけに、KGBにとっては、「教え子」だからという弁明も効く。
■「ビジネスマンを信じてはならない」と痛感
ゴルバチョフの改革が失敗し、ソ連邦が解体に向かい混乱が増す中で、プーチンは補佐役として業績を積み上げていく。1991年6月にサプチャークがレニングラード市長になると、プーチンも対外関係委員会議長のポストに就く。
1991年9月にレニングラードはサンクトペテルブルクに改名するが、12月にはソ連邦が解体する。
92年5月に、プーチンはサンクトペテルブルク副市長に、94年3月には第一副市長に任命される。職務としては、民営化の促進、外国企業誘致などに奔走したのである。
エリツィン政権下、1991年11月に副首相に就任したエゴール・ガイダルが断行した市場化推進の経済改革(「ショック療法」)は、ハイパーインフレをもたらし、国民生活を大混乱に陥れた。
この危機に際して、連邦政府は地方政府に天然資源を海外に売却するなどの自由裁量権を与えた。これを活用して、サンクトペテルブルク市は外貨を稼ぐが、その金額に見合うだけの食料が海外から届かなかった。
責任者のプーチンが不正を働いたと批判されたが、真相が不明なまま、この件は闇に葬られた。
プーチンは、この苦い経験から、ビジネスマンを安易に信じてはならないこと、ロシアの天然資源、とりわけエネルギー資源を国家管理することの必要性を痛感したのである。
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国際政治学者、前東京都知事
1948年、福岡県生まれ。71年、東京大学法学部政治学科卒業。パリ、ジュネーブ、ミュンヘンでヨーロッパ外交史を研究。東京大学教養学部政治学助教授を経て政界へ。2001年参議院議員(自民党)に初当選後、厚生労働大臣(安倍内閣、福田内閣、麻生内閣)、都知事を歴任。『ヒトラーの正体』『ムッソリーニの正体』『スターリンの正体』(すべて小学館新書)、『都知事失格』(小学館)など著書多数。
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(国際政治学者、前東京都知事 舛添 要一)
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