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千代田区大手町の三井物産本社ビルに"緑地"がある深い理由…なぜ高層ビル密集の都市に"鎮守の杜"が多いのか

プレジデントオンライン / 2023年9月27日 11時15分

将門塚(=2022年10月20日、東京都千代田区) - 写真=時事通信フォト

■大手町一丁目の三井物産本社ビルになぜオアシスが?

今年の夏は過去に経験したことのない、異常な暑さであった。温室効果ガスの排出に伴う温暖化や、都市化によるヒートアイランド現象など、複合的な要因が考えられる。地球温暖化防止には、エネルギーの抑制とともに森林の再生が効果的だ。そこで近年、日本の仏教や神道の考え方が見直されてきている。本稿では「エコロジーと宗教」の関係について述べていく。

気象庁はこのほど、6月から8月までの平均気温が統計開始から125年間で過去最高を更新したと発表した。温暖化が影響した大規模な山林火災や水害も各地で発生するなど、予断を許さない。近代以降、「科学万能」を標榜し、自然をコントロールできると錯覚してきたツケが、われわれに回ってきたのかもしれない。

「自然」という言葉の、本来の意味をご存じだろうか。

一般的には「人工」と対比する言葉として使われることが多い。つまり、われわれ人間を取り巻く外部環境――山や川、海などの人為の加わらない空間、あるいは雨や風などの気象現象、動植物などの生物――が、おおまかな「自然」の概念だ。英語で書けば、ネイチャー(nature)となる。

だが、「自然」という言葉は本来、仏教用語として使われてきた。この場合は「じねん」と読み、「おのずとそうなる」「本来、そうであること」「あるがまま」などの意味を包含する。

例えばスポーツや武術において「自然体でのぞむ」という表現がしばしば用いられる。これは「自我で、どうにかしようという考えを捨て、あるがままに身を委ねる」というニュアンスであり、仏教語としての使い方といえる。「自然(じねん)」は、人間を取り巻く外部環境という位置づけの「ネイチャー」とは異なる意味であり、「内なる心の働き」のことを指す。

この「あるがまま」を目指す仏教のありようが、温暖化抑制に一役買ってきた側面がある。

読者の皆さんが住む地域にある寺や神社。実はこれらもそれに含まれる。都会を歩いていると、街の中にこんもりとした森を見かけることがある。その森の中に入ってみると、時に寺や神社などの宗教施設を見つけることができるだろう。

都会では、せいぜい半世紀ほどの短いスパンで建てては壊し、また建てて……という再開発が繰り返されている。他方で、土地に根差した寺や神社などの「鎮守の杜」は、何百年単位での空間が維持されている。

そうした存在は千代田区にもある。同区大手町の再開発における三井物産本社ビル建て替え工事の際には、平将門を祀った「将門塚」が壊されることなく保全された。事業者は将門の祟りを畏れ、解体や移転をしなかったのだ。その結果、高層の近代ビル群の合間に、都会のオアシスとなる緑地が存在し、ビジネスパーソンの憩いの場所にもなっている。

■なぜ、東京や大阪など都心部に鎮守の森が多いのか

東京都内では東京・芝の増上寺、上野の寛永寺、新宿御苑や明治神宮などの寺社仏閣の空間も然りである。かつては、増上寺は隣接するプリンスホテルや芝公園を含めた広大な敷地が、寛永寺では上野公園全域が、広大な寺院境内地であった。

東京都の寺院数は約2900カ寺、神社数は約1500社ある。大阪府でも約3400カ寺、約700社だ。それぞれに鎮守の杜が広がっていると考えれば、いかに宗教施設が地球環境の保全に貢献しているかが、お分かりだろう。

仏教にも造詣が深く、環境保護と宗教の関係性についても論じてきたのがノルウェーの哲学者アルネ・ネスである。1972(昭和47)年、ネスによって提唱された「ディープ・エコロジー(深いエコロジー運動)」は、まさに仏教のもつ共生思想そのものといえる。

ディープ・エコロジーは、「シャロー・エコロジー(浅いエコロジー運動)」との対比で用いられる。シャロー・エコロジーは、環境問題に取り組む際に、とりわけ先進諸国の経済・生活・社会保障などのレベルを維持し続けることを前提としている。

しかし、ディープ・エコロジーでは、自然に存在する生き物はすべて平等であるととらえ、人間中心的な環境思想は根本から見直さなければならないと、説く。そのため、現在の経済水準をシュリンクさせていく必要も求められる。

このディープ・エコロジーの考えこそ、仏教のもつエコロジー思想とかなりの部分で合致する。

例えば、仏教の根本思想を伝える経典涅槃(ねはん)経には《一切衆生(いっさいしゅじょう) 悉有仏性(しつうぶっしょう)》と説かれている。これは生きとし生けるものすべてには、仏としての本質が備わっているという意味であり、ネスの平等思想と相通じる考えだ。

ようは「あらゆる命(衆生)は平等」としてとらえ、他者に「慈悲」の態度で接し、さまざまな関係性(縁起)のなかで生かされているとの認識「共生」を持とう、というのがネスや仏教のエコロジー思想といえる。

神社が有する鎮守の杜を守ろうとしたのが、南方熊楠(みなかた・くまぐす)(1867-1941)であった。南方は博物学、民俗学における近代日本の先駆者的存在であり、わが国最初のエコロジストと呼ばれる植物学者でもある。

きっかけは1906(明治39)年、明治政府(西園寺公望内閣)が神社合祀(ごうし)令を発布したことである。神社合祀令とは「神社の廃仏毀釈(きしゃく)」と位置付けられている。この法令によって全国の神社が大規模に整理統合されることになった。基本的には、それまで地域に点在していた神社を、1つの町村につき1社にまとめるというもの。これによって1914(大正3)年までに、約20万社あった神社が、日本書紀などに記された由緒ある神社のみの7万社まで減らされた。その結果、明治後期に日本の多くの神社の大木が伐採されるという、大規模な環境破壊が国家主導で行われたのである。

現在、地域に無人の祠(神をまつっておく建物、ほこら)や、神社境内の片隅に個別で小さな祠が祀られているのをよく眼にするが、神社合祀で再編された際に壊され、「祠化」した事例であることが少なくない。

無人の神社でも「鎮守の杜」は保全されている
撮影=鵜飼秀徳
無人の神社でも「鎮守の杜」は保全されている - 撮影=鵜飼秀徳

背景には、明治以降の国家神道によって、神社が国の管理になったことが挙げられる。国は20万もの神社を管理する財源が確保できなくなり、統廃合せざるを得なくなったのだ。神社合祀令によって、約13万社が消えてしまったわけだが、神社境内が消えてしまうことに対して当時、ナショナルトラスト運動(市民が自分たちのお金で身近な自然や歴史的な環境を買い取って守るなどして、次の世代に残す運動)が展開されている。

■芭蕉や一茶を魅了…命がけで環境保全をした秋田の住職

このナショナルトラスト運動の先頭に立ったのが、南方であった。南方の地元、和歌山では激しい神社合祀に見舞われた。約3700社あったのが600社に整理されたという。

この状況を憂いた南方は、神社合祀反対運動の先頭に立つ。神社の樹木は地域の財産であり、生態系を破壊し、地域が衰退していく元凶になりうると警鐘を鳴らした。南方は投獄されるも、激しい抵抗を示し続けた。南方の運動によって、多くの神社と鎮守の杜が守られた。

神社だけではない。長い日本の仏教の歴史の中で、環境保護運動に僧侶がかかわった事例は少なくない。ここで興味深い例をひとつ紹介しよう。秋田県にかほ市にある蚶満寺(かんまんじ)の住職の話である。

象潟の蚶満寺山門
撮影=鵜飼秀徳
象潟の蚶満寺山門 - 撮影=鵜飼秀徳

この寺は象潟(きさかた)と呼ばれる風光明媚(めいび)な場所にある。ここは、「東の松島、西の象潟」と評される景勝地としても知られる。かの松尾芭蕉も魅了され、わざわざ迂回(うかい)してまで象潟にまで足を延ばしたほどである。1789(寛政元)年には俳人、小林一茶も訪れている。

象潟は芭蕉の『おくのほそ道』における、北限の折り返し点だ。しかし、芭蕉が見た風景を、現在の象潟に見ることはかなわない。

なぜなら、大地震によって土地の形状が変わったからだ。1804(文化元)年、この地一帯を象潟地震(マグニチュード推定7.1)が襲う。地震の3年前には鳥海山が噴火しており、その影響を受けた火山性地震とみられる。津波も発生し、家屋5500軒、死者366人を数えた。

この時、鳥海山の西側にあたる出羽の沿岸25kmにわたって土地が隆起した。象潟では平均2mも土地が持ち上がった。結果、蚶満寺の周囲の海は陸となり、風景が一変したのだ。

象潟島をはじめとする九十九島(くじゅうくしま)はまるで古墳群のように、ぽこぽこと地上に姿を現した。一方、蚶満寺は地震と津波、土地の隆起によって地蔵堂のみを残して壊滅した。

地震後に住職となった覚林は再建を誓う。一面、泥地となった境内の地盤改良と伽藍(がらん)の再建に奮起している最中、ひとつの問題が起きた。

当時、この地を治めていたのは本荘藩であった。本荘藩は2万石そこそこの小藩で、地震後はひどい財政難にあえいでいた。そこで、隆起してできた干潟を干拓し、新田開発することで財政を立て直そうと考えた。

しかし、元は海。作物をつくっても塩害が生じてしまう。そこで藩は塩抜きのために元の島である山々を削ってならす計画を実行する。100以上あった島のうち40ほどの島が潰されたという。

このままでは、伝説にもうたわれた古くからの景勝地が失われてしまう――。覚林は再三にわたって工事の中止を藩に申し入れるも、無視され続けた。そこで覚林は一計を案じ、それを実行すべく、一路、京の都に向かった。

1812(文化9)年3月、和尚は御所の閑院宮家を訪ね、さまざまな古事を示すと、勅願所(天皇の命令によって国家鎮護・玉体安穏などを祈願する社寺)になってほしいと懇願する。蚶満寺が閑院宮勅願所ともなれば、周辺の景観は保全されると考えたのだ。

閑院宮は和尚の訴えを了承すると、御紋付きの提灯や幕、絵符、印判を与えると1815(文化12)年には、本堂の再建資金として白銀30枚を下賜した。京都の宮家の勅願所ともなればその言い分に、藩も無視することはできず、工事は中止になった。

ところが、藩からは逆恨みされることになる。藩は宮家の文書偽造など無実の罪をでっちあげ、寺を封鎖。身の危険を感じた覚林は江戸の寛永寺に駆け込み、訴えた。しかし、あえなく捕らえられて還俗(げんぞく、僧が僧籍を離れ俗人にかえること)を余儀なくされる。覚林は本荘城下で獄死してしまう。

■自然破壊のバロメーターは地域の寺社にある

鵜飼 秀徳『絶滅する「墓」:日本の知られざる弔い』(NHK出版)
鵜飼 秀徳『絶滅する「墓」:日本の知られざる弔い』(NHK出版)

現在、象潟は国の天然記念物と鳥海国定公園に指定され、国内に二つとない不思議な景色を醸している。これは、覚林のアイデアと行動力のおかげなのだ。

作家司馬遼太郎は『街道をゆく』で、士官学校の同期に会うために蚶満寺を訪れた時の様子を紹介している。そこで、「現在の美田・九十九島の風景。60あまりの島々が田園地帯に浮かぶ特異な景観には、近世農民の歴史が刻まれている。覚林が守ろうとした景観は、今なお保全され、景勝の地として人々の心を惹きつけている」と綴っている。

経済の維持・発展のためなら、なりふり構わず環境を破壊しようとする者と、命をかけて自然保護運動を展開した先人たちがいた。いつの時代も、自然破壊のバロメーターは、地域の寺社にあるのかもしれない。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)

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