家康が天下を取ったタイミングは関ヶ原合戦ではない…東大教授が語る「本当の天下分け目の最重要局面」
プレジデントオンライン / 2023年10月8日 8時15分
※本稿は、本郷和人『天下人の軍事革新』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。
■秀吉の家臣になった家康は「新たな我慢」をすることに
小牧・長久手の戦いはその後、両軍の睨み合いが続きました。天下統一事業を急ぐ羽柴秀吉は、合戦で家康を屈服させることは困難と判断、政治的に追い詰める方向に転換します。1584(天正12)年11月、秀吉と織田信雄は和睦しました。同盟を結んでいた信長の遺子を助けるという大義名分を失った家康は、兵を引くしかありません。
家康は、秀吉の要請で次男の於義丸を人質に送ったものの、臣下の礼を取ろうとしませんでした。局地戦とはいえ、小牧・長久手の戦いの戦闘で勝利していることが、ここで効いてきます。さらに人質を求める秀吉に対し、徳川家中は、酒井忠次、本多忠勝らの強硬派と石川数正らの融和派に分裂しました。1585(天正13)年11月、数正が出奔する事件が起きます。家康の家臣の筆頭は東三河を本拠にする酒井忠次、数正は序列2位で西三河を本拠にしていました。
数正の出奔は、両派の対立が原因と考えられなくもないのですが、私は単に秀吉の誘いに乗っただけだと思います。当時の秀吉は、各大名家の有力家臣をしきりにヘッドハンティングしていました。たとえば、島津家の伊集院忠棟、大友家の立花宗茂、丹羽家の長束正家、伊達家の片倉景綱などで、彼らに独立した大名になるようにすすめています(景綱は主家を変えず)。
■秀吉のすごさはなりふり構わず目的を遂げること
これは、譜代の家臣を持たなかった秀吉が有能な人材を求めたこともあるでしょうが、有力な家臣は仕えている大名家の重要機密を握っていますから、彼らを高待遇で引き抜くことで大名家の機密データを取ろうとした意図もあったでしょう。三河武士でも、好条件を示されれば秀吉のもとに行くこともある。それだけのことです。
数正出奔の翌年10月、家康は大坂城に出向くと、秀吉に臣従します。秀吉は家康に、妹の朝日姫と母の大政所を人質に差し出しています。通常、臣下になる者が人質を出しますが、メンツなどどこへやら、秀吉はこの逆を行なったわけです。秀吉のすごいのは、このようになりふりかまわず、あらゆる手を使って目的を遂げることです。これは、家康との性格・戦略の違いなどとすますべきではなく、別次元と言っていいでしょう。
■家康が「もう殿下に戦場で陣羽織は着させない」と言った逸話
謁見(えっけん)の前日、秀吉は家康を訪ねると手を握って頼んだという、次の逸話があります。秀吉は、信長の盟友だった家康を家来だった自分より格上だと持ち上げ、そのうえで「明日は貴殿を家来として扱うが、天下泰平のため、一肌脱いでほしい」と言いました。家康も心得たもので、翌日、諸大名が居並ぶ場で平伏すると「今後は私が戦働きをいたします。殿下が陣羽織をご着用される必要はございません」と申し述べ、秀吉が着用していた陣羽織を貰い受けたというのです。
この逸話は創作でしょうが、秀吉と家康の間に主従関係が設定されたことがよくわかりますし、何よりも2人の性格や関係性が示されていて、興味をそそります。いずれにせよ家康は、今川氏、織田氏と続いてきた臣従および忍従の日々から解放されたのも束の間、秀吉のもとで“我慢”を強いられることになったのです。
1586(天正14)年、家康は居城を17年間過ごした浜松城から駿府城(現・静岡市)に移しました。しかし1590(天正18)年の小田原征伐後、家康は豊臣秀吉の命により関東に転封されてしまいます。
■関東転封で家康の石高は130万石から250万石へ倍増
これにより家康は、武蔵国、上野国、下野国(現・栃木県)の約半分、相模国(現・横浜市の一部と川崎市を除く神奈川県ほぼ全域)、下総国(現・千葉県北部、茨城県南西部)、上総国(現・千葉県中部)、伊豆国(現・静岡県伊豆半島)の7カ国を領し、石高は130万石から250万石に増えました。豊臣家(220万石)をも凌ぐ、日本一の大大名となったのです。
家康は江戸城に入ると、徳川四天王をはじめとする家臣を支城に置いたり、直轄地の代官に抜擢したりして、難なく統治していきます。1592(天正20)年には朝鮮出兵が始まりますが、家康は渡海することなく、伏見城(現・京都市)に滞在して、豊臣政権の中枢に身を置くようになります。前述の石高数も含めて、家康の存在感が否応なく増しました。さらに、前田利家、毛利輝元らと共に5大老にも就任しています。
1598(慶長3)年、秀吉が死去。ついに、家康に天下取りのチャンスがやってきました! 家康は禁じられている政略結婚を繰り返し、加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの大名を味方につけたりしていきます。これらの所業を家康の専横と受け止めた石田三成は、危機感を募らせます。そして、全国ほとんどの大名を巻き込む、天下分け目の戦いへと発展していきました。関ヶ原の戦いです。
■秀吉の死後、関ヶ原合戦前の重要局面「小山評定」では……
関ヶ原の戦いは1600(慶長5)年、家康率いる東軍10万と、毛利輝元を総大将に三成を中心とした西軍8万の間で起きた合戦です(軍勢の数には異説あり)。戦いの詳細については触れません。私が強調したいのは、天下人が行なった軍事革新ですので、その視点から述べていきます。関ヶ原の戦いについてお知りになりたい方は、戦場の地点に着目した拙著『壬申の乱と関ヶ原の戦い なぜ同じ場所で戦われたのか』をご覧ください。
関ヶ原に向かう以前の緊迫した一件と言えば、小山(おやま)評定でしょう。小山評定とは、徳川軍が上杉景勝を討伐するために会津に向かう途中、本陣を置いた小山(現・栃木県小山市)において、三成挙兵の報が入り、家康が急遽諸将を招集した軍議のことです。「このまま上杉を討つべきか、反転西上して三成を討つべきか」を質したのです。
諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、しかも西軍が支配する大坂に妻子を残しています。いつ西軍についてもおかしくありません。家康にとって、彼らの去就こそ勝敗の境目でした。小山評定について最近検討されているようですが、結局、家康は諸将と向き合う必要があった。
■秀吉の子飼いの家臣たちに「三成を討つか」と迫った家康
その意味では、「どこでどのように」という要素はあまり重要ではありません。そうではなくて、秀吉子飼い筆頭格の福島正則が一番に家康のために戦うことを誓い、続いて山内一豊らが兵糧米の供出を申し出た。そのことが大事なのです。その結果、家康率いる東軍は三成討伐のために西上することを決したのです。
家康にとって、関ヶ原の戦いの展開は織り込み済みだったでしょう。西軍の総大将の毛利輝元が動かないことも、小早川秀秋が寝返ることも。そのうえで、勝敗の帰趨(きすう)も確信していました。エビデンスを示します。
家康は、戦場に側室のお梶の方を帯同していました。家康が武田氏と対峙(たいじ)していた20年間における子づくりの少なさとは対照的です。また、豊臣秀吉が小田原征伐で淀殿を呼んだことに似ているかもしれません。必死の戦いなら、戦場に女性を連れてきません。家康は「この戦は勝てる」と確信していたとしか考えられないのです。
結局、西軍でまともに戦ったのは石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継くらいで、6時間で決着がつきました。
■関ヶ原の勝利は外交と政治によるものだった
関ヶ原の戦いは、家康にとって外交の勝利、政治の勝利であったわけで、軍事行動にそれほど見るべきものはありません。重要なのは戦いのあとです。なぜなら、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)を破っても、東軍(家康)の最終的勝利にはならないからです。家康の戦争目的は天下人になることであり、そのためには政敵(三成)を葬り、玉(豊臣秀頼)を手中に収める必要があります。
東軍が小山から西上したのは、最終的には大坂城に入るためです。西軍は、それを阻止するために、関ヶ原に防御ラインを敷きました。三成の目的は家康の首を取ることではなく、政権から排除することです。秀頼を握っていた三成の目論見は、天皇・朝廷を動かして政治的に勝利することであり、秀吉の小牧・長久手の戦いを模範にしていた、と私は考えています。
■勝った家康は大坂城に入り秀頼の生殺与奪権を握った
大坂城には、秀頼を擁した毛利輝元の本軍がいます。そこに関ヶ原の戦いの残党が加わって籠城する可能性は十分にありました。実際、立花宗茂は抗戦を主張しています。家康にすれば、秀頼を抱えた状態で籠城されると、それまで東軍についていた豊臣恩顧の大名たちの動向が読めなくなります。もしかすると、西軍に寝返るかもしれません。
そのため、家康は本多忠勝と井伊直政を通じて、輝元の大坂城からの退去をうながしました。家康は、輝元ら西軍が出たあとの大坂城に入城すると、秀頼の生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握ります。ここに家康の政治目的は達成され、勝利が確定したのです。
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東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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