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宗教勢力を飼い慣らすにはどうすべきか…信長や秀吉が手を焼いた懸案を、あっさり解決した家康のアイデア

プレジデントオンライン / 2023年10月29日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tuskiusagi

一向一揆や島原の乱など、戦国武将はしばしば宗教勢力の台頭に悩まされた。ところが江戸時代に入ると、そうした問題は沈静化する。人気予備校講師の茂木誠さんは「家康は、キリシタンと一部の日蓮宗以外には露骨な宗教弾圧はせず、各宗派の存続を認めた。幕府の行政機関としての存続を保証された仏教各派は、積極的な布教をしなくなった」という――。

※本稿は、茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

■神官の一族につながる信長の家系

室町幕府は、有力守護大名の連合政権でした。足利将軍家の後継者争いが、守護大名の覇権争いと結びついた応仁の乱によって京都は焼け野原となり、幕府は事実上崩壊して戦国時代に突入します。

そんな折、ポルトガル人が伝えた鉄砲の量産に着手したのが、尾張(愛知県)の戦国大名・織田信長でした。

織田家の遠い祖先は、忌部(いんべ)氏という神官の一族です。今川義元を奇襲攻撃して義元のクビを取った桶狭間の戦いの際、地元の熱田(あつた)神宮(じんぐう)で必勝祈願をしていることから、信長が無神論者ではなかったことがわかります。戦乱で荒れ果てた御所を再建したのも、天皇に対する敬意からだったのでしょう。

「天下布武」を掲げて京都に入り、室町幕府を滅ぼした信長に対し、西の毛利氏、石山本願寺、北の浅井(あざい)氏・朝倉氏、比叡山延暦寺が包囲網を敷きました。その突破口として信長が断行したのが、悪名高い延暦寺焼き討ちです。「宗教」を隠れ蓑に強大な僧兵を抱え、朝廷にもたびたび反抗し、信長の統一を公然と邪魔するに至った延暦寺に対して、信長は堪忍袋の緒が切れたようです。

「仏罰を受けるのでは?」と側近たちが躊躇する中、信長は全山の焼き討ちを命じます。僧兵の多くは妻帯していましたから、婦女子もたくさんいたのです。しかし、信長は容赦なく、「なで斬り」(皆殺し)を命じました。

これを非難する武田信玄からの書状に対し、信長は「第六天魔王」を自称した、と宣教師フロイスは伝えています。第六天魔王とは、仏法を妨げる魔王のことです。

次に信長が「最大の敵」としたのが、大坂の石山本願寺でした。親鸞の11代目にあたる門主の顕如(けんにょ)は大坂本願寺で抗戦。彼は熱狂的な門徒からなる強力な軍隊を持っていました。堺の港を通してポルトガル人から鉄砲や火薬を買い付け、鉄砲隊も組織していたのです。

信長は水軍を動員して大坂湾を封鎖し、本願寺への補給路を断ちました。顕如は信長と交渉し、本願寺を明け渡して退去することで、教団としての存続はかろうじて認められました。こうして浄土真宗は生き残ったのです。

本願寺軍が籠もった本願寺は、大坂湾に面した場所にありました。信長はその土地を豊臣秀吉に与えます。秀吉がその跡地に造ったのが大坂城です。

■鉄砲の火薬材料と一緒にポルトガル人宣教師が入ってきた

戦国時代といえば、キリスト教の伝来も触れておかなくてはなりません。

実はキリスト教は、すでに聖徳太子の時代に一度日本に入ってきています。ヨーロッパで異端とされたネストリウス派です。それに対して、戦国時代にフランシスコ・ザビエルが伝えたのは、ヨーロッパで公認されているカトリック教会のキリスト教です。

キリスト教布教には貿易が伴いました。この貿易を目当てにキリスト教に改宗するキリシタン大名が現れました。大友義鎮(おおともよししげ)、小西行長(こにしゆきなが)、有馬晴信(ありまはるのぶ)といったキリシタン大名は、宣教師を招くと共にポルトガル商人を誘致し、硝石(しょうせき)の輸入を始めました。

作者不詳「南蛮屏風」(1600年、DIC川村記念美術館蔵)。南蛮船から上陸したカピタン(船長)とその一行を、日本に住み布教をしているキリスト教の宣教師たちが出迎えている。
作者不詳「南蛮屏風」(1600年、DIC川村記念美術館蔵)。南蛮船から上陸したカピタン(船長)とその一行を、日本に住み布教をしているキリスト教の宣教師たちが出迎えている。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

硝石は、鉄砲で使う黒色火薬の材料です。火薬は、木炭・硫黄・硝石を調合します。森と火山が多い日本には木炭と硫黄は豊富にありますが、硝石は常に不足していました。そのインド産硝石をもたらすのが、ポルトガル商人。つまり、キリシタン大名が求めたのは、布教と共に行われる貿易だったのです。

一神教であるカトリックの宣教師は、キリシタン大名にこう耳打ちします。「仏教ヤ神道ハ邪教デス。悪魔崇拝デス」――。そして、神社や仏閣を焼くように進言するのです。実際に大分のキリシタン大名・大友氏は、領内の神社仏閣を焼いています(小著『超日本史』KADOKAWA参照)。

これに抵抗する仏教徒や神社の氏子は捕われ、彼らを奴隷として買い取り、東南アジアや中南米の植民地に売りさばいたのがポルトガル商人でした。

■ポルトガル人の蛮行に激怒した秀吉

九州平定のため乗り込んできた豊臣秀吉は、神社仏閣が壊され、日本人が奴隷として売り飛ばされる蛮行を見て激怒します。秀吉は「バテレン(宣教師)追放令」を出して、キリスト教布教を禁止しました。

結局、キリスト教は日本人にほとんど根付きませんでした。宣教師は、こう嘆きます。「日本人は決して愚かではない。キリスト教に対する好奇心も強い。それなのに、キリスト教を受け入れないのはなぜだ?」と。

答えは簡単です。キリスト教が日本の伝統的な宗教を否定したからです。宣教師たちが破壊を命じるその寺には、自分たちの祖先が眠っています。「イエス様ヲ信ズレバ救ワレマス」と彼らは言うけれど、「じゃあ、仏教徒だったうちのじいちゃん、ばあちゃんは地獄に行ったの?」。当時のキリスト教の教えでは、「異教徒は地獄に落ちる」と決まっていました。こう言われて、キリスト教に改宗するなど無理な話です。

延暦寺や石山本願寺と敵対していた信長は、「敵の敵は味方」ということで、キリスト教宣教師を優遇しました。しかし安土城に案内された宣教師ルイス・フロイスは、信長がクリスチャンになる気は毛頭なく、それどころか自らの神格化を図っているとして非難し、本能寺の変で信長が殺されたのは天罰だ、とまで語ります。

■大仏は建てたが信心は薄かった

「バテレン追放令」を出した秀吉は、神道・仏教に対してどのように考えていたのでしょう。

秀吉の神道・仏教への考えがわかる、こんなエピソードがあります。秀吉は京都に、方広寺大仏殿を建てました。その資材に充てるため、という名目で「刀狩令」を出したのはよく知られています。

大仏殿には、奈良東大寺よりも巨大な木造大仏を祀りました。この大仏は黒漆の上に金箔(きんぱく)を貼った豪勢なものでしたが、わずか1年で地震のため損壊してしまいました。

激怒した秀吉は、大仏の眉間に矢を打ち込み、こう言い放ちます。「余は国家の安泰のため大仏を建立したのだ。ところがこの大仏は、自分の体も守れぬとは何ごとだ! 役立ず!」。この一件で、秀吉には神仏に対する畏敬の念のかけらもなかったことがよくわかります。

その一方で、秀吉は死後、豊国大明神として祀られています。信長ができなかった自身の神格化を、秀吉はやってのけたのです。

■浄土真宗の分裂騒動も利用した家康

次の徳川家康は、代々浄土宗を信仰してきた松平家に生まれ、戦場では浄土宗の思想を示す「厭離(えんり)穢土(えど)・欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)」の旗を掲げていました。「穢れたこの世を離れ、極楽浄土を求める」という意味です。

京都の百萬遍知恩寺
写真=iStock.com/tekinturkdogan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tekinturkdogan

信長に降伏した一向宗(浄土真宗)に対しても好意的でした。大坂を退去した本願寺は京都に移って教団としての存続が許されましたが、門主の地位をめぐる内紛で二つに割れます。家康はこれを調停して東本願寺・西本願寺を併存させ、いずれも幕府の敵対勢力にならないようにコントロールします。その辺り、家康はとにかくうまいのです。

一方で、天台僧の天海という謎の人物を軍師として身近に置き、信長が焼いた比叡山の復興を支援します。江戸の街のプランをつくったのがこの天海で、江戸の東北(鬼門)にあたる上野の山を比叡山に見立て、天台宗の東叡山寛永寺を置き、西南(裏鬼門)にあたる芝には浄土宗の増上寺をおいて、江戸の街を霊的に防衛するとともに、天台宗と浄土宗とのバランスを保ちました。

さらに家康が没すると「東照大権現」の神号を贈って神格化し、関東の鬼門にあたる下野(栃木県)の日光に家康を葬って日光東照宮を建立しました。

■江戸時代の安定をもたらした「壇家制度」の確立

家康以降、江戸幕府はキリシタン取締りを名目に、全国の寺院を行政の末端機関として利用しました。これを檀家(だんか)制度といいます。

寺院に町村役場の役割を負わせ、「宗門改帳」という戸籍をつくらせたのです。これにすべての人民を登録させて、「私は浄土宗です」「私は真言宗です」と申告させる。今でも「うちは○○宗」と宗派が決まっていますよね。この仕組みは江戸時代初期に政治的理由でつくられたものなのです。

家康という人は、やり方が本当に上手です。キリシタンと一部の日蓮宗以外には露骨な宗教弾圧はせず、各宗派の存続を認め、幕府のコントロール下に置きました。つまり、宗教を飼い慣らし、じわじわと首根っこを押さえていったのです。

幕府の行政機関としての存続を保証された仏教各派は、このあと積極的に布教をしなくなりました。この頃から仏教は、現代まで続く「葬式仏教」へと変貌していくのです。

これ以降、江戸時代の思想には仏教がほとんど登場しません。それは宗教が世俗化され、どんどん骨抜きにされていったからでした。

■西欧でも各国政府が教会をコントロール下に

これとよく似たことは西欧でも起こっています。カトリックとプロテスタントとの血みどろの宗教戦争が約100年続いたあと、各国政府が教会をコントロール下に置きます。

茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)
茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)

たとえば、イギリス王がイギリスの教会を支配し、聖職者を任命する。これを国教会制度といいます。フランスや、北欧諸国でも似たような制度になりました。この結果、教会は行政機構に組み込まれ、もはや積極的な布教はしなくなり、世俗化が進んでいったのです。

それでは神道はどうなっていったのでしょう? 室町時代には天照大神ではなく、虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)という神を最高神とする一神教的かつ儒学・仏教・道教が混在する吉田神道が広まり、朝廷公認にもなっていました。

宗教統制は江戸幕府も望むところです。家康も吉田神道の権威を認め、全国の神職の任免権を与えました。幕末まで、この吉田神社が神道を統括する神社本庁のような役割を担っていたのです。

ところが幕末の尊皇攘夷運動と連動して、儒学・仏教・道教を排除し、天照大神を最高神とする復古神道が登場し、明治の国家神道へとつながっていくのです。

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茂木 誠(もぎ・まこと)
予備校講師
東京都出身。駿台予備学校、ネット配信のN予備校で大学入試世界史を担当。東京大学など国公立系の講座を主に担当。世界史の受験参考書のほかに、一般書として、『超日本史』(KADOKAWA)、『「戦争と平和」の世界史』(TAC出版)、『バトルマンガで歴史が超わかる本』(飛鳥新社)、『「保守」って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(共著、ビジネス社)『ジオ・ヒストリア』(笠間書院)、『政治思想マトリックス』『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)ほか多数。YouTube「もぎせかチャンネル」でも発信中。

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(予備校講師 茂木 誠)

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