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日本軍は8月17~18日に「敗戦はウソだ」というビラをまいた…「負けを認めたくない人たち」の異常な行動

プレジデントオンライン / 2023年10月29日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Pavel Muravev

第二次世界大戦での敗戦を、当時の日本人はどのように受け止めたのか。学習院大学の井上寿一教授は「軍が8月15日以降も徹底抗戦を呼びかける宣伝ビラをまいたこともあり、『昭和天皇の玉音放送はデマだ』と信じない人もいた」という――。

※本稿は、井上寿一『戦争と嘘 満州事変から日本の敗戦まで』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を編集したものです。

■国民に敗戦を告げる「重大なラジオ放送」

この間にも戦況は日本の敗戦を不可避としていた。

6月23日、沖縄の守備隊が全滅した。米軍の日本本土上陸作戦は時間の問題に過ぎなくなった。8月6日、広島に原爆が投下される。8月8日、ソ連が対日宣戦を布告する。翌日、ソ連軍の侵攻が始まる。同日、今度は長崎に原爆が投下される。二つの原爆投下とソ連の対日参戦は、日本政府に敗戦を受け入れさせる。8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を決定して、連合国に申し入れた。

問題は日本の降伏をどのようにして国民に伝えるかだった。そこで考え出されたのが玉音放送である。政府がポツダム宣言を受諾したにもかかわらず、軍部の一部は徹底抗戦の構えをとっていた。彼らがクーデタを引き起こすおそれもあった。一刻も早く正確にもっとも正式な内容の国家意思を伝達する手段だったのがラジオである。

玉音放送は予告された。前日の午後9時と当日の午前7時過ぎである。「重大なラジオ放送」との予告だけで、戦争終結の内容とはわからなかった。

■ソ連への宣戦布告と誤解する人も

いよいよ8月15日午後12時、時報のあと、ラジオが重大発表を伝える。居住まいを正して玉音放送を聴いた国民のどれほどがその内容を正確に理解できただろうか。難解な漢語交じりの詔書の意味は、ラジオの雑音のせいもあり、聴き取るのはむずかしかった。なかには重大発表の意味を対ソ開戦と誤解する人もいた。

山田誠也は玉音放送を大衆食堂のなかで聴いた。食堂の「おばさん」が山田にたずねた。

「どうなの? 宣戦布告でしょう? どうなの?」

ここでの「宣戦布告」とはいうまでもなくソ連に対してのものだった。

■日本が敗けるとは想像していなかった

山田は食堂の「おばさん」の誤解をラジオの調子の悪いことや難解な表現だったこと、あるいは降伏とは一言も言っていないことだけでなく、日本の敗戦が「信じられなかった」からと日記に記している。

1945年8月15日、終戦の詔書を読み上げる玉音放送を聞く日本の民間人たち
1945年8月15日、終戦の詔書を読み上げる玉音放送を聞く日本の民間人たち(写真=“Japan's Longest Day” 1968 英語版、262ページ/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

山田は玉音放送の意味を理解できた。

「あれはポツダム共同宣言だ。米国、英国、蔣介石の日本に対する無条件降伏要求の宣言をいっているんだ」

食堂の「おばさん」は「く、口惜しい」と一声叫んだ。

戦争終結を知っても解放感はなかった。食堂では「みな、死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨(せいさん)ともいうべき数分間であった」。

国民はおそらく勝てるとは思っていなくても、敗ける実感にも乏しかったようである。どんなに戦況が悪化しても、最後のひとりになっても戦う。そのような決意は玉音放送一つで失われた。こうして戦争は終わった。

■玉音放送を信じた人は「国賊」扱いに

この敗戦を告げる玉音放送を信じない人々がいた。

長崎県では憲兵隊が隊員をトラックに分乗させて、市民に伝えていた。

「本日のラジオ放送はデマ放送なり敵の謀略に乗ぜられるな軍は益々軍備を堅めつつあり」

新潟県・柏崎市の病院の病床にあったある男性は、玉音放送を聞いても信じようとはしなかった。あるいは鹿児島県・奄美のある村ではふたりの兵隊が郵便局長を詰問していた。「きさまは国賊だ。とんでもないデマを飛ばした。生かしてはおけない。ラジオの放送は敵の謀略とわからぬか」。郵便局長は玉音放送で戦争が終わったことを周囲にもらした。その方が本当だった。

広島から中国大陸に派遣されていたある部隊は、「不穏と恐怖の流言飛語に疑心暗鬼」に陥っていた。それでも「降伏を不満とし、屈従せず同志を糾合して〔寄せ集めて〕祖国を再建せん」との勢いだった。

玉音放送を謀略として信じない人々がいた背景には、8月15日前後の徹底抗戦を呼びかける軍の宣伝ビラの撒布があった。

この日、東京・赤坂の青山四丁目付近で、陸軍将校の同乗するバイクのサイドカーからビラが撒布された。そこには「国体護持」のために本日8月15日の早暁〔夜明け頃〕を期して蹶起(けっき)し、我ら将兵は全軍将兵ならびに国民各位に告げる旨、記されていた。

■「特攻隊は降伏せぬから国民よ安心せよ」

あるいは豊島区の要町付近では海軍の飛行機から「大日本帝国海軍航空隊」のビラが投下された。「断乎として戦え〔……〕座して亡国を待つか戦って名誉を守るか」

陸軍の飛行機も17日と18日、東京の新宿駅上空からビラを撒布した。

「詔書は渙発(かんぱつ)せられた〔出された〕然(しか)し戦争は終結したのではない/大日本陸軍」

作家の高見順は、敗戦時、神奈川県の鎌倉に住んでいた。敗戦の翌日、高見は親類から東京の世田谷でも飛行機がビラを撒き、そこには「特攻隊は降伏せぬから国民よ安心せよ」と記されていたと聞く。

翌17日には横須賀鎮守府〔海軍の根拠地〕や藤沢航空隊なども「あくまで降伏反対」で、不穏な空気が漂うなか、「親が降参しても子は降参しない」そのようなビラが撒かれている、あるいは東京の駅にも降伏反対のビラが貼ってあって、「はがした者は銃殺する」と書いてあった旨を知る。

■「天皇陛下は死刑にされる」というビラも

ビラは次々と撒布される。

この日(8月17日)東京の三多摩地区で飛行機と自動車から撒かれたビラは、「日本に無条件降伏なし/国民よ奮起せよ」と訴えている。あるいは東京の品川駅前の京浜デパート前で撒布されたビラにはつぎのように記されていた。

「敵は天皇陛下を戦争の責任として死刑にすると放送している これで降参が出来るか 起て 起て〔立ち上がれ 立ち上がれ〕忠良なる〔忠実で善良な〕臣民降伏絶対反対、絶対反対」

上野駅でも下士官数名がつぎのように記されていたビラを撒く。

「同胞に檄(げき)す‼/降伏は絶対に真の平和に非(あら)ず/ 独逸(ドイツ)の悲惨な現状を見よ〔……〕陸海軍蹶起部隊」

玉音放送後にもかかわらず、戦争は終わっていないかのようだった。医大生の山田誠也が同じ大学の学生十数人と激論を交わしている。そのなかのひとりが言った。

「軍は必ず起つ。必ず起つと航空隊はビラを撒きおるにあらずや〔撒いているのではないか〕。これに応じて吾らまた馳せ参ず。敵の上陸地点がすなわち戦場なり」

■嘘を信じた日本人は「報復」に燃えた

軍の宣伝ビラの効果は覿面(てきめん)だった。嘘のビラを信じる人がいた。

8月27日、山田のもとに叔父から手紙が届く。

「8月15日、突如として重大声明の発表あり〔……〕本日ただいまより報復の準備にとりかからねばならない」

山田は翌日の日記に「叔父のような人間は今全日本に充満している」と記している。日本は8月15日を境に、復讐戦に立ち上がったかのようだった。

■デマから読み取れる天皇制への不安

敗戦直後のさまざまなデマや流言のなかで、際立つのが天皇制のゆくえに関するものである。

東京御所二十橋
写真=iStock.com/font83
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/font83

8月17、20日の両日、池袋・元富士・丸ノ内の各警察署の管内の上空から、「友軍機」(味方の軍の飛行機)がビラを撒布した。「皇陸海軍」名のこのビラは、「敵は畏(かしこ)くも玉体〔天皇〕を沖縄に御移し奉るべきことを放送し来れり」。

このような事実はなく、まったくのデマだった。8月19日に上野駅付近で撒かれた「陸海軍精鋭七生義軍」のビラは、「天皇処断/皇族島流し/果せる哉マッカーサーはこの暴虐を宣言して来た」となっている。事実無根だったことはいうまでもない。

あるいは神奈川県知事名の文書「大東亜戦争終結に伴う民心の動向に関する件」は、天皇制のゆくえに関する神奈川県民の動向として、つぎのように記録している。

「皇室の御安泰即ち国体を護持し得たことは心から喜び居るも将来の見透しなきため相当不安の色あり」

天皇制のゆくえは不確かだった。

天皇制のゆくえに関して、警視庁保安課政治係が10月3日にまとめた文書によれば、その最大公約数的な「『デマ』的憶測」は、天皇が「戦争責任者」として譲位し、皇太子はアメリカに「遊学」する、「親米英的なる秩父宮殿下が摂政」になる、というものだった。日本は無条件降伏をした。天皇制がどうなるかはわからなかった。それにもかかわらず、デマではあっても日本の国民は天皇制の存続を前提としていたことがわかる。

■天皇制が絶対に維持されるとは限らなかった

デマのなかにはもっと極端な荒唐無稽のものもあった。

井上寿一『戦争と嘘 満州事変から日本の敗戦まで』(ワニブックス【PLUS】新書)
井上寿一『戦争と嘘 満州事変から日本の敗戦まで』(ワニブックス【PLUS】新書)

鳥取県の中央部と鳥取市内の一部では「天皇陛下は自害されたり」、あるいは「天皇は皇太子殿下に譲位され沖縄に行幸された」、または「秩父宮は敵国のスパイであった為病気と名付けて軟禁せられていた」とのデマがあった。

ほかにも東京都におけるデマの例として、北越工業株式会社社長の田辺雅勇のつぎのような発言が記録されている。

「国民は日本が降伏しても天皇の御身分に付いては不変であろうとの安易感を持って居る様であるが、斯(そ)んな甘い考えで通る筈がない」

この発言をデマと決めつけることはできない。なぜならば連合国のなかにはソ連や英連邦諸国(オーストラリア・ニュージーランド)のように、天皇制に対してきびしい姿勢を示す国があったからである。

■天皇退位を求める国民意識があったのではないか

そのほかのデマがデマであることは、9月27日にわかるはずだった。この日、天皇=マッカーサー会見が予定されていたからである。翌日の新聞は、ラフなスタイルのマッカーサーとモーニング・コートで起立している天皇の写真を掲載した。この写真は権力がマッカーサーの占領軍にあることを示すとともに、天皇制の存続を示唆していた

それにもかかわらず、さきの保安課政治係の作成文書によれば、この会見において、天皇は「御退位遊ばさる旨御洩しあらせられた」との憶測が「相当広範囲に亘り流布せられつつあるを看取(かんしゅ)〔見てそれと知ること〕」された。

憶測やデマであっても、国民の気持ちの幾分かは反映されている。天皇制の存続を前提としながらも、天皇は戦争責任をとって退位すべきだ、国民の平均的な意識はそうだったのではないかと推測することができる。

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井上 寿一(いのうえ・としかず)
学習院大学教授
1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程単位取得。学習院大学学長などを歴任。現在、学習院大学法学部教授。法学博士。専攻は日本政治外交史。主な著書に、『危機のなかの協調外交』(山川出版社)、『日中戦争』(講談社学術文庫)、『戦争調査会』(講談社現代新書)、『広田弘毅』(ミネルヴァ書房)、『矢部貞治』(中公選書)などがある。

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(学習院大学教授 井上 寿一)

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