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15歳の頃から知恵が回る女性だった…茶々が関ヶ原後の窮地で息子・秀頼を守るために取った生き残り戦略

プレジデントオンライン / 2023年10月29日 13時15分

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

石田三成が、天下人になろうとする徳川家康を止めるため起こした関ヶ原の戦い。しかし、その三成が敗れ、豊臣秀頼の母・茶々は窮地に立たされた。歴史学者の黒田基樹さんは「当時の茶々は32歳。世間ではこの戦いを家康と豊臣家の戦いと見ていたが、茶々はどちらにも肩入れしないという立場を取り、戦後すぐ家康に書状を出した」という――。

※本稿は、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)の一部を再編集したものです。

■15歳の時、32歳上の秀吉から「妻に」という申し出を受けた

信長の死後、茶々の母市は、織田家宿老の柴田勝家に再嫁することになり、岐阜城で婚儀をあげたうえで、勝家の本拠の越前国北庄城に移っていき、娘の茶々らもそれにしたがって北庄城に入った。しかし天正11年4月、秀吉と勝家が対戦した賤ヶ岳合戦の結果、北庄城は落城、柴田勝家は市とともに自害した。茶々ら姉妹は、今度は秀吉に庇護されることになり、安土城に置かれたとみられている。

当初から秀吉の庇護をうけていたとみられているが、それは母市の要請であったという。秀吉は茶々らを引き取った直後に、茶々に使いを出し、その趣旨は「私(御主)と一緒になっていただきたい」というものであった。茶々は15歳(史料表記は「13」だが誤り)であったが、「御知恵よく、御内証無沙汰の様子、御聞き及びも御座候ゆえ」と、知恵も廻り、秀吉の内意は決定ではないと聞いていたので、「このように親なしになって、秀吉を頼みにするからには、どのようにも秀吉の指図通りにするが、先に妹たちの縁組みを調えていただき、そのうえで秀吉とのことはどのようにでもしていただきたい」と返事したという(「渓心院文」)。

■茶々は賢い少女で秀吉に妹たちの縁組みを優先させた

ここからは、茶々が賤ヶ岳合戦後、秀吉に引き取られるとすぐに、秀吉の妻に迎えられることになっていたことがわかる。この秀吉からの要請に対して、茶々は、まだ15歳であったものの、知恵が廻った人物であったらしく、秀吉の申し出をうけいれるかわりに、先に妹たちの縁組みを取り計らうことを要請している。茶々は長女として、まずは妹の立場の安定を図ったものととらえられるであろう。茶々は決して凡庸な人物ではなく、むしろ賢い部類にあったことがわかる。

また、茶々がここで、親のない身となってしまったので、これからは秀吉を頼るしかない、と述べていることは重要である。茶々の人生を考えるにあたって、この「親がいない」ということが、その後の人生を決定的に規定した、極めて重要なキーワードとして受けとめられるからである。

■21歳で秀吉の嫡男・鶴松を産み、妻の序列ナンバー2に

茶々は、遅くても天正14年(1586)10月1日までには、秀吉と婚姻し、その妻の一人とされていた。しかし、その動向がよく確認されるようになるのは、秀吉の子を懐妊してからのことで、同16年10月に、秀吉によって、羽柴政権の京都における本拠であった聚楽第から、摂津国茨木城に移され、その後しばらくは同城で過ごすことになる(『太閤書信』63号)。そして、出産が近づいた同17年の3月か4月頃に、茶々と生まれてくる子のために大改築された淀城に移され、5月27日に長男鶴松(当初は棄丸)を出産した。茶々は21歳であった。

しかし、鶴松はわずか3歳であえなく死去してしまい、秀吉は、鶴松死去にともなって、家督を甥の秀次に譲り、聚楽第も秀次に譲って、自身は寧々ともども大坂城に移った。そして翌文禄元年(1592)3月から、朝鮮出兵にともなって肥前国名護屋城に在城した。その際、茶々もこれに同行している。ここで茶々は、秀吉正妻の扱いをうけていることが確認され、鶴松死去によっても、その立場に変化はなかったことがわかっている。

淀君(茶々)の肖像画
淀君(茶々)の肖像画(写真=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■鶴松の夭折後4年でふたりめの子・秀頼を出産する

そうして同年のうちに再び懐妊し、翌同2年5月までに大坂城に戻った。以後は二の丸に居住したことが確認され、「二の丸様」と呼ばれている。そして、8月3日に次男秀頼(幼名は拾丸)を出産する。もっともこの時点で、秀頼の羽柴家後継者の地位は確定されていない。すでに羽柴家当主は秀次に譲られていたからである。しかし、その後の政治史は、羽柴家の将来像をどう描くかという観点から展開していき、最終的には、同4年7月、秀次切腹事件として結実することになる。

その間の文禄3年11月、茶々と秀頼は大坂城二の丸から、秀吉の京都における本拠として築城された伏見城(指月城)の西の丸に移り、茶々はその後「西の丸様」と呼ばれている。

そうして秀次没落後は、秀頼が秀吉後継者の地位を確立することになる。そのうえで秀吉は、自身に次ぐものとして秀頼を位置付け、それに続けて寧々、茶々を位置付けている。このことは茶々が、寧々とともに、羽柴政権の正妻としてそれを主宰する側に位置し続けていることを示している。

■秀頼は秀吉の後継者となるが6歳の時に秀吉が死去

慶長元年(1596)5月、秀頼は初参内し、この頃から実名「秀頼」を名乗るようになる。翌同2年、参内して、元服し、仮名は父秀吉のそれを踏襲して「藤吉郎」を称し、従四位下・左近衛権少将に叙任され、次いで同中将に昇進している。ここに秀頼の、秀吉後継者としての地位は明確になった。

同3年(1598)4月には、従二位・権中納言に昇進する。官職としては、内大臣徳川家康、大納言前田利家に次ぎ、同じ中納言には小早川秀秋・徳川秀忠・織田秀信・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元がいたが、彼らの位階は従三位であったから、秀頼は別格の立場にあることがわかる。しかし8月18日、「太閤」秀吉が死去した。

この時、秀頼はまだ6歳にすぎなかったため、当然ながら政務を執ることはできず、成人までの政務体制として、遺言により、いわゆる「五大老・五奉行制」が組織されることになる。また秀頼は、大坂城を本拠とすることが決められた。

豊臣秀頼像
豊臣秀頼像(写真=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■「五大老・五奉行」以外にも秀頼に言上できる立場の武将がいた

そして翌慶長4年(1599)正月に、秀頼は正式に羽柴家の家督を継承し、本拠を大坂城に移した。その際に、同城の勤番体制が定められ、秀頼に直接に言上できるものとして、「五大老・五奉行」と、徳川家康嫡子秀忠、前田利家嫡子利長、それに石川備前守光吉(大谷吉継の妹婿)・石田木工頭正澄(三成の兄)・石川掃部介一宗(宇多頼忠の娘婿、石田三成とは相婿)、そして片桐且元であった。また、詰番衆は二番が編成され、その番頭は杉原伯耆守長房(寧々の伯父杉原家次の子)と大野修理大夫治長(茶々の乳母大蔵卿局の長男)であった(『新修徳川家康文書の研究第二輯』)。

これらが秀頼を直接に支えることになった人々といえる。このうち、石川光吉以下の4名について、福田千鶴氏は「秀頼四人衆」と仮称している(『豊臣秀頼』)。これは4人が、「五大老・五奉行」とその後継者とは別に、秀頼付きの重臣として位置したことを意味している。そしてここに、片桐且元が加えられることになったのである。これ以後、且元は秀頼の重臣として、それを支えていくことになる。

■茶々が32歳の時、権力闘争の末、関ヶ原の合戦が起きる

その後、翌年の関ヶ原合戦にいたるまで、政権内では権力闘争が激しく展開される。慶長4年のうちに、「大老」筆頭の徳川家康が、伏見城に入城して事実上の「天下人」の地位につき、次いで大坂城西の丸に入って秀頼との政治的一体化を遂げて、単独による執政体制を確立させている。そうして慶長5年を迎えて、「大老」上杉景勝を謀叛によるとして討伐軍を発向させ、関ヶ原合戦へといたることになる。この時、茶々は32歳になっていた。

この合戦において、秀頼を後見する茶々の行動がみられるのは、合戦前日にあたる9月14日、近江大津城の開城講和を成立させた時であった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』)。

大津城の城主は、茶々の妹初の夫であるとともに、秀吉妻の一人であった京極竜子(松の丸殿)の兄の京極高次である。高次は江戸方に味方し、大坂方から攻撃をうけていて、落城寸前の状況にあったなか、京都に在住していた北政所寧々と、大坂城の茶々が、京極竜子救出を名目にして両軍に講和を勧告し、成立させたものであった(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』)。いわば、羽柴家の親類の地位保全のために、秀吉後室の北政所と茶々が奔走したものとみることができるであろう。

■家康率いる東軍が勝った後、茶々が取った行動とは

合戦後の動向として知られるのは、21日、大津城に滞在していた家康に、秀頼とともに書状を出していることである。すなわち翌22日付けで、家康側近の本多正純が、江戸留守居衆に宛てた書状のなかで、秀頼と茶々(「御ふくろ様」)から書状が送られてきたことが触れられていて、それによって「大坂城のこと」(「大坂の儀」)も大方数日中には片づくであろうと述べられている(松尾晋一「九州大学所蔵『堀家文書』について」)。もっとも、秀頼からの書状といっても、わずか8歳にすぎなかったから、自身の意志によるものではなく、いうまでもなく茶々の意向によって出されたものに違いない。

書状の中身まではわからないものの、時期や状況から推測すると、合戦での江戸方の勝利の報告をうけたことに応えて、家康の戦勝を祝するものであったことは想像に難くないであろう。それはすなわち、茶々と秀頼が、江戸方と大坂方の抗争に対して、家康支持の態度を示すものであったととらえられる。

■茶々は秀頼の「羽柴家当主」としての立場を守ろうとした

関ヶ原合戦は、江戸方・大坂方ともに、「秀頼様御為」を標榜しての抗争であった。すなわち政権内における権力闘争としての性格のものであり、そのため羽柴家当主としての秀頼の地位は、理論的には、双方にとって変わらないものであった。しかし、それらは当事者の認識にすぎなかったともいえる。9月27日の家康と秀頼の対面について、例えば、京都の公家である山科言経は「秀頼卿と和睦也と云々」と記している。世間ではこの合戦について、家康と羽柴家との対立とみる向きもあったことがうかがわれる。

黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)
黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)

実際、毛利輝元が家康に代わって大坂城西の丸に在城したことについて、茶々と秀頼はそれに異を称えたわけではなく、容認したものと思われる。茶々の意向としては、政権内部の権力闘争に対して、どちらにも肩入れしないことで、それらから超然とした「羽柴家当主」秀頼の立場を維持しようとしたのだろう。しかし、世間ではそれを、家康への敵対と受けとめていたとしても当然のことであったし、そうであるからこそ、茶々と秀頼は、合戦後ただちに、家康への支持を表明する必要があったともいえる。

またちょうどこの時は、先にみたように、江戸方と大坂城西の丸にいた毛利輝元との間で、輝元の西の丸退去の交渉がすすめられていた。「大坂城のこと」とは、このことを意味しているとみてよいであろう。茶々と秀頼が、そのように家康支持の態度を示したことで、輝元の退去も無難に実現されると考えられたのであろう。実際、その後に輝元はすんなりと退去していくのである。茶々と秀頼が家康支持の態度を示した以上、輝元にとってそれは仕方のないことであったと思われる。

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黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。

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(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)

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