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平安時代に「フリーセックスの女王」がいた…千年前から「クルマの中の逢瀬」を実現していた女流歌人の性生活

プレジデントオンライン / 2024年1月11日 13時15分

百人一首56番、和泉式部の和歌(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」には、主人公の紫式部をはじめ多くの女流歌人が登場する。その中の一人が、和泉式部だ。彼女は京の都を騒がせたプレイガールだったという。歴史小説家・永井路子さんの著書『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

■平安時代に「フリーセックスの女王」がいた

フリーター、フリーセックス、フーテン、同棲時代……ほんとにいまの若いものは、と眉をひそめるオトナたち。それをしりめに、

「古くさいオトナにはわからないさ」

と若い世代はうそぶく。

が、たいへん新しいはずのそのフリーセックス、じつは日本ではとうの昔に実験ずみなのだ。古代の歴史を虫眼鏡でじっくりのぞくと、すべてそれであるかのようにも見えるが、中でも何やらそれが優雅な装いに包まれているのは、王朝はなやかなりし平安時代のフリーセックスの女王、女流歌人和泉式部がいるからである。

彼女の父は大江雅致(まさむね)、冷泉上皇の后、昌子内(しょうしない)親王につかえる役人。母もこの昌子の乳母(めのと)だから、いわば職場結婚の、まあ中流官吏の家庭だった。

「まあ、いい家の娘が、あられもない――」

世の中ではいつもそう言うが、むしろこの階級がいつの世にもくせものなのだ。

■「女性のサロン」育ちのプレイガールに

しかも彼女の両親の職場だった昌子内親王の後宮――こうした高貴な女性のサロンこそ、くせもの中のくせもの、しじゅう愛欲と不倫が渦まいていた。その後宮をわが家のようにして生(お)いそだった式部が、いつのまにか早熟な恋の妖精になっていたのも無理からぬことではないか。

それに――。現在とそのころでは結婚の形態がかなりちがう。一夫多妻はあたりまえで、男はこれぞと思った女のところへ、あちこちと通っていく。なかでいちばん家柄もよし、財産もあり、みめかたち、心ばえすぐれた女が正妻となって、やがて男はその女の家でくらすか、あるいは一家をかまえるかするのだが、かといって、これまで通っていた女とぷっつり切れるわけではない。

彼女たちは、後世の「二号」のような日かげものではなく依然として正妻に準ずる本妻としての権利をもっているのである。だから正妻たるものも「結婚しちゃえばもう安心」とばかりにデンと構えるわけにも行かないし、他の女たちも捨てられまいと腕によりをかける。そのためには女たちは今よりずっと「恋じょうず」である必要はあったらしい。

■永久就職口を探す男、家を安定させたい女

捨てたり捨てられたり、なかなか気の休まらない生活だが、そのかわり、捨てられたからといって、明日の生活にも困るというわけではない。当時の女は家つきで家屋敷などは全部女の子が相続する。男の方はそこへポッとやって来て、食事はもちろん、着るもの一切の面倒をみてもらうのが実情だった。当時の男たちが、腕によりをかけて恋文を送ったりしたのは、よりよい永久就職口をみつけるための涙ぐましき努力でもあったのだ。

その限りでは、夫の方がむしろ扶養家族(?)なのだが、今の婿養子とちがうところは、彼の官職は舅(しゅうと)のお蔭を蒙(こうむ)らず、実家の父親の七光のお世話になる。当時は家柄社会だから関白の長男ならこのくらい、次男ならこのくらい、大納言の子ならこのくらい、とほぼ出世の限界がきまっていた。

だから、女の方としてみれば、なるべく出世の見込みのありそうな、いい家の息子を婿に迎えようと腕によりをかける。亭主どのが出世すれば、わが家も御安泰になることは、今も昔も変りがない。かといって夫に全生活をオンブしているわけではないから、その男と切れても、あわてふためくには及ばない。おもむろに、お次に現われてくるのを待てばいいのである。こんなとき、男の方も、

――何だ、あいつはセコハンじゃないか。

などとは言わない。ちなみに、日本の女の中に貞操観念が定着し、その見返りとして、処女性が尊ばれるようになったのは、ずっと後のことである。だから、婚前交際、試用期間はあるのがあたりまえで、その間には、何人もの男が出入りするというお盛んな例はよくあった。

■子供の父親を聞かれ「知る人ぞ知るよ!」

和泉式部も少女時代から、こうしたプレイガールのひとりだった。いつ彼女が初めて恋におちたか、男の肌を知ったかはあきらかではないが、今残っている歌をみると、交渉のあった相手はかなりの数になるらしい。

さてそのうち、彼女の前にマジメな相手があらわれる。和泉守道貞。年が多いのが玉にキズだが、県知事クラスのオジサマだ。しかもそのころの国の守はみいりの点では東京都知事など及びもつかない高額所得者である。やがて彼女はみごもったが、それと知ると、口さがない人々は黙ってはいなかった。

「あんた、それ、だれの子なの? 大分お盛んだったけれど」

すると彼女はすまして答えた。

此の世にはいかが定めんおのづから昔をとはむ人にとへかし――そんなこと、だれがわかるもんですか。知る人ぞ知るよ!

アッパレな答えではあったが、結局道貞との結婚は長つづきしなかった。

しかし、これは、あながち彼女だけの責任ではなかったようである。金持ちオジサマの道貞も、なかなか打算的な男だったからだ。

■夫が式部の両親に大盤振る舞いした理由

彼は式部と結婚したとき、わが家を舅の大江雅致に提供している。先に言ったように、男が女の所へ通って来てそこへ住みつくのがあたりまえのことだった当時としては、これは破格のサービスである。

道貞がかかるサービスをやってのけたのは、式部の魅力のとりこになったからかというと、そうではない。実は舅にとりいって、昌子内親王のサロンにくいこみ、一段の出世をしようというコンタンだったのだ。

国の守というのは、なかなかみいりのいい役どころだが、これはあくまでも地方官である。中央でいい役につかなければ、最終的な出世は望めない。だから何かの手づるをつかもうと、このクラスの人間は必死になる。そうした男にとって、皇后サマのサロンなどは絶好である。ここで忠勤を励めば、やがて皇后サマのお声がかりで、いい地位にありつけようというものである。

■結婚は破綻し、夫は別の女と地方へ

もっとも、冷泉上皇は、生まれつき脳に障害があったと伝えられ、その皇后である昌子のサロンは、それほど時めいていたわけでもなかったが、しかし、利用価値は皆無ではない。この道貞の狙いはどうやらまちがってはいなかったらしい。というのは、昌子内親王が病気になると、この家は雅致の家という名目で、その静養所に利用され、それと前後して、道貞も舅の下役としてとりたてられたからである。まさしく事は思いどおりに運んだのだ。

ところが、まもなく思わぬつまずきがおこった。昌子内親王がなくなってしまったのだ。サロンは自然解消、とたんに道貞は冷たくなり、一家に出てゆけよがしをしたらしい。家つきカーつき(おそらく馬もたくさんあったろうから)の結婚は、ここで破れるが、はでなけんかもした。

「いいわよ、絶対にあなたのことなんか思い出さないから!」

という彼女の猛烈な歌も残っている。道貞は別の女をつれて、さっさと任地の和泉に下ってしまったらしい。

もっとも、そのころ式部には、すでに親しい恋人もいたのだという説もある。冷泉上皇の皇子で、美貌をうたわれた、当代きってのプレイボーイ、為尊親王がそのひとだ。為尊は昌子の子ではないが、ときおりおそらくごきげん伺いに来ることもあったようだから、そこで彼女を見初(みそ)めたのではないだろうか。

■新恋人のプリンスは夜遊びがたたって急死

親王と中級官吏の娘の火遊び――マスコミのない時代にも、これには沸いた。こんなとき、えてして上流階級の人間は図にのるもので、おっちょこちょいの為尊は、人の噂にへきえきするどころか、ますますいい気になったらしい。

賀茂の祭の日、二人がいっしょの車に乗り、わざと思わせぶりに式部の乗っている方の簾(すだれ)を下げて、衣装だけをチラと覗かせ、都に話題をまきちらしたりしている。おそらく彼女が真の愛欲にめざめたのは、この遊蕩プリンスの濃厚な愛撫(あいぶ)の味を知ったからではなかったか。

ところが、こんども――。突然の終止符がやってくる。親王が急死したのだ。そのころ悪性の流行病が広がっていたので、まわりはしきりに夜遊びを止めさせようとしたのだが、為尊はいっこうに聞きいれず、式部やそのほかの女性のところを遊びあるき、とうとう病気になってしまったのである。

突然中断された愛欲のなやましさ――それはやがて、彼女を次の恋へと誘ってゆく。相手は、為尊の弟、敦道親王。なき恋人ゆかりの人がなつかしく、式部のほうから歌を送ったのがきっかけになった。敦道も兄におとらぬプレイボーイだったが、なき為尊の喪もあけぬうちにこの年下のプリンスをさそったのは、まぎれもなく、彼女である。

■「車の中の逢瀬」を千年前に実験していた

「あやしかりける身かな。こはいかなる事ぞ」

二人が結ばれたあと、彼女はこう言っている。自分で誘惑しておきながら、

「私って、どうしてこうなんだろう」

とは、いささか無責任ムードである。

親王にはすでに二人の妻があって、なかなか式部を訪れるのがむずかしいので、しめしあわせて、親王の別荘にゆき、そこで逢いびきしたこともある。女が出かけてゆくというのは、当時としては、あるまじき行為だったが、彼女はあえてそれをした。

大胆になった二人は、次には、親王がよその家に泊まっているとき、車宿(くるまやどり)(車庫といってもかなり広い場所だが)でデイトする。式部が迎えの車に乗り、車宿に入ったところへ、そっと親王が出て来て車の中でしのびあい――。

もちろん、召使いたちは、車の中に人がいるとは気がつかず、まわりをウロチョロしている。そんな中で、衣ずれの音にも気をつかい、息をひそめて求めあうスリリングなひととき――「クルマの中」はフロオベルのボヴァリー夫人以来、現在のポルノ小説まで、よくお目にかかる場面だが、かれこれ千年前に、すでに式部は実験ずみであった。

平安時代の車
平安時代の車(写真=Askewmind/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■またまた恋人が亡くなり、宮仕えを開始

やがて敦道は外でのしのびあいに満足できなくなり、式部を自分の家にひきいれる計画をたてる。それには、さすがに周囲から文句が出たようだが、

「いいじゃないか。身のまわりの世話をする侍女をひとりふやすようなものさ」

とうそぶいてうけつけない。式部のテクニックにとろかされて、彼女なしではいられなくなったプリンスの狂態言行録である。かくて式部は親王家に迎えられるのだが、これも異例中の異例であって、天下の耳目を聳(そばだ)てることになった。

和泉式部と敦道親王との灼熱(しゃくねつ)の恋も、しかし長つづきはしなかった。彼女の愛のほむらに焼きころされるように、親王もまもなく世を去ってしまうからだ。この親王との恋のいきさつを書いたのが「和泉式部日記」である。

やがて彼女は、紫式部などといっしょに、ときの天皇一条帝の后、彰子に仕えるようになる。和泉式部という名は、実は宮仕えするようになってからの名前で、「和泉」とは、先夫道貞が和泉守だったことによる(彼女にかぎらず王朝の女性の名は、親族の職名や官名によるものが多く、本名はほとんどわからない)。こうなっても彼女のプレイマダムぶりはおさまらなかったらしく、「うかれ女め」などといわれていたようだ。

■安定した「県知事」と再婚したが…

しかし、このプレイマダムも、年をとってくると、次第に「安定」にあこがれ始める。そこで目をつけたのが、丹後守、藤原保昌だ。彼女の第一の夫、道貞が和泉守だったことを思いだしていただきたい。国の守というのは親王や上流貴族にくらべれば、地位は低いが、経済的にはなかなかゆたかである。中流官吏の娘の落着く先としては、このあたりがいいところだとさとったのだろう。

もっともこの保昌との間も決して円満ではなかった。任地の丹後にいっしょに下ったものの、夫はまた都に行ってしまってなかなか帰らず、ヒステリーを起こしている歌もある。

しまいにはどうやら別れてしまった様子だし、先夫道貞との間に生まれた娘の小式部にも先だたれてさびしい晩年だったらしい。

彼女については、深い仏教思想の持ち主だったから、現代のプレイガールたちとは雲泥の差があるという考え方もある。しかし、私はそうは思わない。むしろ、意外と現代の若い人たちとも共通性があるように思われる。

■やりたい放題でも嫌われなかった理由

たとえばこんな歌がある。

くらきよりくらき道にぞいりぬべきはるかにてらせ山の端の月

まさに愛欲におぼれた自己を反省し、仏に救いを求める歌だというのだが、じつはこの歌は彼女の第一回の結婚以前の作品だ。体験がにじみ出ているのではなくて、むしろ当時の常識的な、おざなりの仏教思想からの発想にすぎない。今でこそ仏教はカビがはえた古くさいものだと思われているが、当時としては仏教の説く不安感や「罪へのおののき」は流行の新思想だった。

きけばアメリカのヒッピー族の根底にも社会不安があり、アングラ映画にも高邁(こうまい)な芸術理論があるという。和泉式部の仏教思想も、案外この種の「新思想」ではなかったか。

ただひとつ、フーテン族との大きな違いは、これだけ好き勝手にやりながら、彼女はだれからも憎まれていないことだ。

例の紫式部という、したたかなオバサマまで、彼女にはコロリと参って、「あのヒト、素行はちょっと感心しないけど歌は上手だわ」

などと日記に書きつけている。紫式部のような身もちの固い才女にさえも、そう悪く思われていないのはみごとなものだ。

■ガクのある紫式部の歌よりずっと心に迫る

これには秘訣(ひけつ)がある――と私は思っている。これだけさんざんタノシんでおきながら、彼女はいつも「捨てられムード」を装っているのだ。紫式部オバサマまで唸らせた歌をとりあげてみると、それがよくわかる。自分はいつも頼りなくて、今にも捨てられそうだ、という歌ばかりなのだ。もっとも意地の悪い紫式部は、彼女の歌について、

――それほどガクはないけれど……。

と保留をつけてはいるが。しかしなまじガクがないからこそ、直感的で彼女の歌は私たち千年後の人間の魂をもゆすぶるのである。たとえば「百人一首」にある、

あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

ならたいていの方が御存じであろう。その口調のよさ、もの悲しさ。これなら別に解釈をしてもらわなくてもよくわかる。もう一首――。

つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天下り来むものならなくに

これも一度読んだらすぐ覚えられそうな歌だ。もっともその当時は、紫式部のいうように、ガクのある歌がほめそやされた。つまり昔の歌の言葉などをさりげなく使って、

――あたしって、こういう古歌を知ってますのよ、オホン!

という顔をするのが高等技術だとされていた。それから見れば、思ったままを歌にしたような和泉式部の歌は、「まだまだ」ということだったのだろう。しかし歌はガクではない。心にジンとしみてくることが第一ではないか。その証拠に、今読むと、ガクのある紫式部の歌はいっこうにおもしろくないのに、和泉のは、ずっと心に迫るのである。

■男心をくすぐる「捨てられムード」な歌

それには、彼女の歌が捨てられムードであることが与(あずか)って大きい、と私は思う。たとえば、敦道親王とアツアツの最中でも、

「いつかは捨てられるのね、私って……」

とか、

「ひとりでは生きていられないわ」

というような悲しそうな歌ばかりが多いのだ。こんな歌をもらえば、男たるもの、一時も放っておけないゾと思うのはあたりまえではないか。

しかし、多分、彼女は、男と会っているときは、ガラリと変って、享楽的な娼婦型の女となって、とことん二人の生活を楽しんだに違いない、と私は思う。会ったときも歌と同じく、しめっぽく、陰気で、愚痴っぽくては、男の方が嫌になってしまう。きっとさんざん楽しんだあげく、別れた後では泣きの涙の歌を贈って、男をギョッとさせ、

――ああ、彼女って、こんな淋しがりやだったのか……。

とますますいとしさをつのらせる、というのが彼女のテクニックではなかったか。

■女性を敵に回さない「オリコウな女性」

紫式部オバサマの判定とは別の意味での、彼女の高等技術はまさにここにあったのである。そういえば、彼女は、大げんかして別れた先夫道貞にも、あとで、みれんたっぷりの歌を贈っているあたり、ちゃんとアフターサービスがついていて誰からも憎まれないように用意している感じである。同性たちにも評判がいいのは、こうした配慮の周到さによるものではないか。

永井路子『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)
永井路子『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)

プレイガールについて、とかく同性の点数は辛いものと相場がきまっているのに、ふしぎと彼女はそうではない。いろいろトラブルを起こしたときなど、赤染衛門(彼女も百人一首に入っている歌人だが)などは、親身になって心配してやっている。これは常に捨てられムードを装った彼女が、世の女たちに、

「私の方が、まだしもシアワセ」

と思わせたからではないだろうか。

プレイガールを志すものは、このくらいオリコウでなければならない。また、世の奥サマ方が警戒すべきは、単純なポルノ志願の女の子ではなく、こういうオリコウな女性なのである。

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永井 路子(ながい・みちこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、小学館勤務を経て文筆業に入る。1964年『炎環』で直木賞、82年『氷輪』で女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』ほか一連の歴史小説で吉川英治文学賞、2009年『岩倉具視』で毎日芸術賞を受賞。著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』『山霧』『元就、そして女たち』『源頼朝の世界』『王者の妻』などのほか、『永井路子歴史小説全集』(全17巻)がある。

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(歴史小説家 永井 路子)

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