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『源氏物語』最後の勝利者は日陰の役割に終始した人物…"後宮の同人誌"が現代まで読み継がれる納得の理由

プレジデントオンライン / 2024年3月18日 8時15分

寛弘5年(1008年)、藤原彰子が敦成親王を産んだ後の「五十日の祝い」の宴席場面。藤原公任が「この辺りに若紫は居られませんか」と戯れに尋ねる。作者不明「紫式部日記絵巻」(鎌倉時代、五島美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

『源氏物語』は恋愛小説として優れているだけでなく、当時の現実に基づいたハイレベルな宮廷文学だったとも言われる。三重県斎宮歴史博物館学芸員である榎村寛之さんは「紫式部が仕えた中宮彰子の夫、一条天皇は、紫式部が歴史というものをしっかり見極め、『どこかにある日本』のリアルな歴史ファンタジー小説を創ったと分析した」という――。

※本稿は、榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)の一部を再編集したものです。

■皇后定子の死去後も紫式部らインテリ女性が後宮で活躍した

では定子が亡くなり、清少納言が過去の人となるとこういう体制(後宮で女性の教養を重視する傾向)は失われたのか、私はそうではないと思う。『栄花物語』では、藤原彰子の入内の際に女房40人が付いて、その選抜は、見てくれや心持ちも当然のこととして、四位・五位の娘でも、物腰の清らかさや、教養の現れ方を重視したとある。

このような吟味されたサロンが彰子の周りにも形成され、その中に、漢字の一つも知らぬような顔をしている漢文学者の娘(紫式部)や、故実の家である大江氏の情報を利用して宮廷政治史を本(記録)にまとめようとする歴史家(赤染衛門)、恋の歌を詠ませればただただ天才(和泉式部(いずみしきぶ))といった個性豊かなブレーンが集まってくる。

古来王権を讃えるのに必須の事項は、神話物語と歴史記録と神語りの歌謡であった。漢文教養が爛熟(らんじゅく)し、神話は仏教に、歴史書は故実の日記に、歌謡はテクニックを競う和歌に姿を変え、教養人としての文人が形骸化していく社会において、彼女たちは学問の家から選抜されたエリートだった。

勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏出身の紫式部(理想化された仮想宮廷物語)、大江匡衡(おおえのまさひら)の妻の赤染衛門(あかぞえもん)(実録歴史物語)、大江氏の生まれの和泉式部(規範にとらわれない天才歌人)という形で王権を語る女性たち、この三人を擁していたこと自体、彰子のサロンが定子の経験と実績を受け継いだものだったといえるのではないかと思う。

■彰子サロンの女房は清少納言ほど知性をアピールしなかった

しかし彼女らは、清少納言のように、ピエロ的に思えるほど知性をアピールする必要はなく、むしろそれを抑制することで中宮彰子を宮廷内の重鎮としようとしていたようにも思われる。だからこそ紫式部は「ことさらに賢ぶって漢字なんか書き散らしているけど、不足しているところも多い。こんなにも目立ちたがる人の行く末はろくなものじゃないね」と清少納言を、いや、その向こうに透けて見える男性貴族社会と真正面から向き合った定子サロンを否定したのではなかったか。

そして彰子のサロンもまた男性社会に唯々諾々(いいだくだく)と従っていくものではなかった。『源氏物語』における理想の貴族像として描かれるのは、実務派で国家の重鎮となる源氏の長男、夕霧(ゆうぎり)である。その姿や源氏の教育方針には、不遇な学者であった父、藤原為時への想いが込められ、また門閥(もんばつ)貴族社会への痛烈な皮肉が垣間見える。

■『源氏物語』で最後に勝つのはセレブではない明石の上

そして『源氏物語』の最後の勝利者は、地方に土着した播磨(はりまの)(兵庫県)守(かみ)の娘で、源氏の女君の中では日陰の役割に終始していながら、源氏が最も信頼を置く妻の「紫(むらさき)の上」に託した一人娘が中宮となり、皇太子の祖母となったことにより、国母とまで呼ばれた「明石(あかし)の上」、地方を知り、京を生き抜いた女性なのである。『源氏物語』もまたシンデレラ物語であり、後宮の同人誌から始まり、現代の二次創作まで読み継がれてきた理由の一つである。

世尊寺伊房・詞書ほか「源氏物語絵巻」和田正尚模写、1911年
世尊寺伊房・詞書ほか「源氏物語絵巻」和田正尚模写、1911年。国立国会図書館デジタルコレクション

『紫式部日記』には、『源氏物語』を読んだ一条天皇が、「この人は日本紀(にほんぎ)をこそ読みたるべけれ、まことに才あるべし」と評したという、国文愛好者には有名な話がある。「この人はあの『日本書紀』をしっかり読んでいるに違いないだろう、大変学識のある人だ」というこのひとことはなかなかに興味深い。なぜ『源氏物語』から『日本書紀』が連想されるのだろう。

そもそも平安中期は、『六国史(りっこくし)』のような歴史書のない時代である。現代でもこの時代については、歴史学より国文学の研究が盛んなのはそのためでもある。つまり、一条天皇の時代には、歴史書など過去の遺物にすぎなかったはずなのだ。

■『日本書紀』を履修した紫式部が書いた後宮の同人誌

一方、日本国が制作した歴史書の『六国史』の中でも『日本書紀』はどうやら特別視されたらしい。もともと『日本書紀』で最も長いのは天武(てんむ)・持統(じとう)朝で、かなり行政記録的な内容になっており、国家運営というのはこうして軌道に乗るのだな、という実感がつかめるような内容になっている(それ以前の天智(てんじ)朝の記録は壬申の乱でかなり散逸したようでもある)。

『日本書紀』は現代史の教科書として書かれたもので、『古事記』が推古(すいこ)天皇の時代でフェイドアウトするように終わるのとは全く異なる様式の歴史書だった。そして『日本書紀』は以後の歴史書に比べてはるかに美文的な修辞が多い。これは中国南朝の梁(りょう)で編まれた『文選(もんぜん)』のような名詩文集から表現や内容を借りている部分が多いからで、いわば平安時代の漢文使用層よりかなり高いレベルの文章で書かれている。だから9世紀から10世紀にかけては「日本紀講書(にほんぎこうしょ)」という勉強会が行われていた。

つまり『日本書紀』は十分に知られているが、今はもう作れない「伝説の秘伝書」だったのである。そうした本をしっかり学び、歴史というものを見極めて物語(つまり、今風にいえば「どこかの日本」の歴史ファンタジー小説)を創っている、これが一条天皇の『源氏物語』に対する率直な感想だったと思う。

■歴史ファンタジー小説としての『源氏物語』

『源氏物語』「夕顔」巻の、すでに亡くなっている「先坊(せんぼう)」(前の皇太子)は醍醐天皇皇太子だった保明親王をイメージし、その妻の六条御息所は、斎宮女御がモデルだといわれる。宮廷で起こるさまざまなことの多くにはモデルがあり、それを桐壺院(きりつぼいん)・光源氏・薫大将(かおるだいしょう)の三世代にわたって、第三者的な視点で描いていく行為は、まさに歴史書の叙述に近い。

一方その同僚の赤染衛門は、本格的な歴史書『栄花物語』を、ひらがな文学という形で作ってしまった。彼女らインテリ受領層の娘たち、つまり実際に行政を動かす家族や、宮廷に生きる主人たちを見ながら生きる階層の女性たちが生んだ文学は、時間の経過を第三者的な目から見る「歴史」という分野に、女性の視点を盛り込んだ。

宮廷文学は単なる「お話」ではなく、内裏の中から社会を客観的に描写し、風刺する文学への展開を見せるようになる。その意味では、彼女たちはその立場から政治に参画していたのであり、それは内裏から外に飛び出し斎宮からメッセージを投げかけた斎宮女御の視点の後継者ともいえるのである。

■天皇の娘である内親王たちの恋愛スキャンダルも多い

さて、この時代の事件を起こす女性は意外に皇族に多い。皇族女性は貴族の婚姻政争に巻き込まれることが少なく、特に内親王は結婚が義務でなかったことも影響しているのかもしれない。その意味で、斎王(さいおう)(天皇に代わり、伊勢神宮・賀茂神社に仕える未婚の皇族女性。前者は斎宮(さいくう)、後者は斎院(さいいん)ともいう)という生き方には注目できることが多い。

十二単
写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi

花山朝の斎宮、済子女王には、野宮で平致光(たいらのむねみつ)という武士と密通をしたという噂が立った。その真偽はわからない。しかし平安末期に『小柴垣草紙(こしばかきそうし)』という春画絵巻が作られるほど、長く語り継がれるインパクトのある噂だった。その次の次、三条朝の斎宮当子(まさこ)内親王は、伊勢に下る前の野宮で、父の天皇の「宝算(ほうざん)」つまり在位が18年という吉夢を見た。そして伊勢では何も異常がないことを父天皇に連絡している。まさに理想的な斎王だったのだが、帰京の後には藤原伊周の子の道雅と恋愛関係になって父上皇を激怒させ、手ずから尼になったと、『栄花物語』が書き残している。

賀茂斎院(かもさいいん)では先に述べた選子内親王、大斎院と呼ばれ、円融・花山・一条・三条・後一条(ごいちじょう)五代の天皇の間奉仕したという斎王が出た。紫式部が対抗意識を燃やすような文芸サロンを作り上げ、摂関家でも無視できない権威を持ち、斎王でありながら仏教にも接近し、退下の後は出家したという、人生を生き切った斎王である。また、この次代の後朱雀(ごすざく)天皇皇女の斎院、娟子(うるわしきこ)内親王は退下の後、源俊房(みなもとのとしふさ)という二世源氏と恋愛関係になって駆け落ちを決行し「狂(たはぶれ)斎院」といわれている。

■彰子の産んだ後一条天皇をやり込めた伊勢斎宮斎王

一方、同時代の伊勢斎宮には、娟子の姉の斎宮良子(ながこ)内親王がいた。良子にはこの種のスキャンダルはないが、伊勢外宮(げくう)の倒壊や内裏の火災などの大事件についての夢告を父天皇に報告して、事態の鎮静を図っている。天皇を補佐しようとした当子内親王と良子内親王の間の斎王が、長元(ちょうげん)の託宣、つまり長元4年(1032)に内宮月次祭(ないくうつきなみさい)の場で、内宮別宮(べつぐう)の荒祭宮(あらまつりのみや)の託宣と称して、時の後一条天皇を神宮軽視と糾弾し、斎宮頭藤原相通(すけみち)夫妻を流罪に追い込むという荒事をやってのけた嫥子(よしこ)女王である。その背景には、成人となった後一条を押さえ込もうとした関白藤原頼通(よりみち)(道長の長男)やその妻、隆姫女王(嫥子女王の姉)の意図があったようだ。

こうした斎王たちの周囲にも、記録にこそ残らないが紫式部や清少納言のような女房たちが付いていたのであり、斎宮や斎院では内侍や宣旨(せんじ)などの女官身分を持っていたりする。たとえば良子内親王のために開かれた「斎宮貝合(さいぐうかいあわせ)」などは女官のサポートなしではなしえなかったイベントである。

■藤原氏の摂関政治をぶっ潰し、院政への道を拓いた内親王

そして、良子・娟子の母の禎子(さだこ)内親王は、三条天皇と藤原道長の娘姸子(きよこ)の娘でありながら、後朱雀天皇亡き後、息子の後三条(ごさんじょう)天皇を皇位に就けるため、伯父の関白藤原頼通と水面下で激しく対立し、ついに摂関家と直接の血縁関係を持たない後三条天皇を即位させることに成功する。つまり禎子内親王は「摂関政治をぶっ潰し、院政への道を拓いた功労者」と評価できる存在で、女性たちのサロンは宮廷の男性社会とはいささか異なる価値観で動いていたことをうかがわせる。

榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)
榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)

こうしたサロンの閉鎖性と団結性が次の時代、つまり平安後期には、皇后や中宮ではない「女院(にょいん)」という形で現れてくる。郁芳門院(いくほうもんいん)(白河皇女媞子(よしこ)内親王、元斎宮)、上西門院(じょうさいもんいん)(鳥羽(とば)皇女統子(むねこ)内親王、元斎院)、八条院(鳥羽皇女暲子(たまこ)内親王)、殷富門院(いんぷもんいん)(後白河(ごしらかわ)皇女亮子(あきこ)内親王、元斎宮)など、未婚の皇族女性たちで、彼女らは待賢門院(たいけんもんいん)(鳥羽天皇の中宮藤原璋子(たまこ))や美福門院(びふくもんいん)(鳥羽天皇皇后藤原得子(なりこ))など天皇の母になった貴族女性とともに、院政期から源平合戦期に大きな存在となっていく。

摂関家出身の天台(てんだい)座主、つまり仏教界のトップ慈円(じえん)をして「女人入眼の日本国」(女人が動かないと日本は前に進まない国)といわしめた社会の胎動は十世紀から始まっていた。女院は天皇の母や内親王の立場として社会的身分を固定させ、その地位を生かして、天皇・上皇の膨大な財産を管理して天皇を後見する地位を100年以上かけて築き上げていったのである。

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榎村 寛之(えむら・ひろゆき)
日本史研究者
1959年大阪府生まれ。三重県斎宮歴史博物館学芸員、関西大学等非常勤講師。大阪市立大学文学部卒業、岡山大学大学院、関西大学大学院で日本古代史を専攻し、博士(文学)に。著書に『斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)、『伊勢斎宮の祭祀と制度』(塙書房)、『伊勢神宮と古代王権 神宮・斎宮・天皇がおりなした六百年』(筑摩選書)など。

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(日本史研究者 榎村 寛之)

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