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社員を叱るのは恥だと思っていた…ダイソー創業者・矢野博丈が一流経営者から学んだ「人を叱る本当の意味」

プレジデントオンライン / 2024年4月3日 9時15分

「うちは100円でも高級品を売っているんです」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/frema

ダイソー創業者の矢野博丈さんは社員を叱れない経営者だった。細かいことをくどくど言うのは恥ずかしい、しつこいのは恥だと思っていたという。だが、伊藤雅俊・イトーヨーカ堂(現セブン&アイ・ホールディングス)名誉会長との出会いで一変した。作家の大下英治さんの書籍『百円の男 ダイソー矢野博丈』(祥伝社文庫)より2人のエピソードをお届けする。

■「うちは100円でも高級品を売っているんです」

矢野の100円均一という商売へのプライドは、誰よりも高く、強固だった。

勉強会などへ出かけていったときのことである。

そこに集まった経営者同士、名刺交換をする。

「ダイソーの矢野と申します」

そう言って、「100円均一」と書かれた名刺を差し出す。

とたんに、相手は嫌な顔をした。

〈あっ、100均の安もの売りか〉

相手は、とりあえず、少しくらいは会話をしようと努力する。

「広島ですか。修学旅行で行きました」

が、もう話したくないという表情をしている。

そんな相手に、矢野は言った。

「100円でも、あなたが思っている安もの売りとは違うんですよ。同じ100万円でも、100万円の車は安ものだけど、100万円の家具は高級品ではありませんか。うちは100円でも高級品を売っているんです。ボロじゃ、安ものじゃ、言わないで欲しい」

■イトーヨーカ堂の伊藤雅俊名誉会長から学ぶ

この商売で生き残りたいから、よりいい商品を目指してやってきたプライドを見せてやった。

それでも、矢野の真意は理解されず、100円均一をバカにしていたのであろう。

そう言われた相手は、ただ笑って矢野を見ていた。

矢野は、経済界の先輩たちから多くのものを学ばせてもらった。あるとき、イトーヨーカ堂の伊藤(いとう)雅俊(まさとし)名誉会長と会う機会を得た。

伊藤は、大正13年(1924年)4月30日生まれ。東京出身。横浜市立商業専門学校(現・横浜市立大学)卒。卒業後、当時の三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に就職する。

入社後すぐに、陸軍特別甲種幹部学校に入校し陸軍士官を目指したが、敗戦を迎え三菱鉱業に復帰。昭和21年(1946年)、三菱鉱業を退社し、母親ゆきと兄の譲が経営していた羊華堂(ようかどう)洋品店を手伝うことになる。

■挨拶程度で終わるだろうと想像していた

昭和23年(1948年)、譲が「合資会社羊華堂」を設立して法人化した。昭和31年(1956年)、気管支喘息(ぜんそく)の持病を患(わずら)っていた社長の譲が死去したため、経営を引き継いだ。

昭和33年(1958年)、「株式会社ヨーカ堂」に移行(後の株式会社伊藤ヨーカ堂)。スーパー経営に乗りだす。

昭和46年(1971年)、「イトーヨーカ堂」に社名変更し、利益重視の経営で業績を伸ばす。また、昭和48年(1973年)にコンビニエンスストアチェーンのセブン-イレブン・ジャパン、同年にレストランチェーンのデニーズジャパンも経営する。

平成8年(1996年)、イトーヨーカ堂取締役名誉会長に就任し、現在、セブン&アイ・ホールディングス名誉会長。

矢野は、伊藤名誉会長に面会できるといっても、挨拶(あいさつ)程度で終わるだろうと想像していた。

〈どうせ、「いらっしゃい。今日はなんの御用ですか。なるほど、わかりました。また、お返事申しあげます。今日は、ご苦労様です」とか、せいぜい5分くらいだろうな〉

■「バカ野郎、お前は、こんなことも知らねえのか」

大企業のトップというものは、泰然自若(たいぜんじじゃく)としていて、小さなことには目を向けないだろうと、矢野は考えていた。

だから、矢野は自分に言い聞かせた。

〈少ししか話はしていただけないけど。5分で話が終わり、出てくるけどいいよな。会えるだけで幸せじャ〉

ところが、5分で終わらなかった。

1時間の約束が1時間半になり、細かいことを次々と質問された。

それでいて、その間次々と社員に怒鳴(どな)り声で指示を飛ばす。社員と話が終わると「すぐ帰れ」という具合だった。

指を突き出して怒る男性
写真=iStock.com/kuppa_rock
社員に怒鳴り声で指示を飛ばす(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/kuppa_rock

矢野の目に映った伊藤名誉会長は、その辺の商人と一緒で、細かいことを言いつづけ、怒りつづけた。

「バカ野郎、お前は、こんなことも知らねえのか」

矢野も散々そう言われ、にっこり笑顔を見せてもらえたのは、一緒に写真を撮らせてもらうときだけだった。

■社長業というものに恥などない

矢野には、衝撃だった。

〈経営者というものは、松下幸之助さんのように組織で動かすことを大切に考えるものだと思っていたけど、そうじゃないんだな。経営者というものは、八百屋のおやじと同じでええんだ〉

八百屋の店先に並んだ野菜
写真=iStock.com/Starcevic
「八百屋のおやじと同じでええんだ」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Starcevic

商人としての謙虚さを教わった気がした。

〈必死になって生きるため、顧客に満足してもらうために社員を一所懸命指導し、一所懸命頑張りつづけることなんだ〉

細かいことをくどくど言うのは恥ずかしいし、しつこいのは恥だと思っていた。しかし、社長業というものに恥などないと学んだ。

それまでの矢野は、潰れる会社に勤めてくれている社員だと思い、社員を叱れなかった。朝の5時、6時から夜の11時、12時まで働いてくれる社員を怒れるはずがない。

しかし、伊藤名誉会長に会った翌日から、矢野は変わった。

必死で社員を怒るようになった。

■ユニー中興の祖、故・家田美智雄にかわいがられた

かつてユニーの会長を務めた故・家田(いえだ)美智雄(みちお)からも、矢野はかわいがられた。

家田は、昭和9年(1934年)1月7日、愛知県稲沢(いなざわ)市に生まれる。愛知県立津島(つしま)高等学校を昭和27年(1952年)に卒業。上京し、明治大学に入学。昭和31年(1956年)に卒業後、地元のスーパーに就職した。

その後、昭和36年(1961年)に、株式会社西川屋入社。昭和45年(1970年)、株式会社西川屋チェン取締役就任。昭和46年(1971年)に、ユニー株式会社取締役に就任する。

その後、同社人事部長や、株式会社ユーストア社長を経て、平成5年(1993年)にユニー株式会社社長に就任、株式会社ユーストア会長に就任する。

平成9年(1997年)には、ユニー会長に就任し、平成12年(2000年)に退任。

会長を退任したのちは、サークルケイ・ジャパン株式会社会長、シーアンドエス取締役、株式会社サンクスアンドアソシエイツの取締役などを歴任している。

■「わたしは、YTB運動をしているんですよ」

矢野によると、家田のすごいところは、社長というよりも、ただのおじさんに見えるところにあるという。

矢野は、あるとき家田に言われた。

「わたしは、YTB運動をしているんですよ」

矢野はなんだろうと思い、聞いた。

「YTBって、なんですか?」
「みんなで、寄って(Y)、たかって(T)、仕事(ビジネス)(B)をしようという運動です」

家田は語った。

「仕事はみんなで寄ってたかってするんです。掃除であっても、下の者がするのではなく、店長も社長も常務も関係なく、みんなで寄ってたかってする。これが楽しいんです」

家田はそう語るいっぽうで、よく口にしていた。

「行き当たりばったりなんだ」

矢野は、その部分をすごいところだと思っていた。

〈一個の人間の生き方として、行き当たりばったりというのは、とても崇高なものだ〉

矢野自身も、行き当たりばったりの人間だ。

■「矢野社長、いい会社ですねえ」

家田は、ほかにも言っていた。

「僕はね、社長として能力が足りない。能力がないから、恥部を見つけて歩くのが仕事なんですよ。ふつうのゴミなら誰でも見つけるけど、小さなゴミは僕にしか見つけられないんです。そんなふうにして会社の恥部やゴミを見つけて歩くだけしか能力がない。本当に社長に向いてないですよ」

どこまでも謙虚な人柄であった。

あるとき、矢野がユニーに行ったとき、家田に言われた。

「ちょっと、ちょっと、矢野社長、うちの社長室を、見てください」

そう言われて、矢野は、家田の社長室を覗(のぞ)いた。

その部屋は、6畳1間に普通の鼠(ねずみ)色の両袖の机とふつうの椅子、今では売っていないようなちゃぶ台みたいな机、食堂にあるような椅子が4つくらい置いてあるだけのシンプルなものだった。

上場企業の社長室といえば、高級な絨毯(じゅうたん)が敷いてあり、絵画が額に収まって、食器棚が置いてあり、壺(つぼ)などの骨董(こっとう)品が置いてあるのが相場だ。

しかし、家田の部屋は、そうした社長室とはまったく反対だった。

反対に、家田がダイソーに来たことがあった。

大下英治『百円の男 ダイソー矢野博丈』(祥伝社文庫)
大下英治『百円の男 ダイソー矢野博丈』(祥伝社文庫)

家田は、矢野を褒めた。

「矢野社長、いい会社ですねえ」

矢野は、褒められた理由がわからなかった。

「どうしてですか?」

「いやあ、夜逃げしやすいじゃないですか。いまどきはみんなビルにして、夜逃げしにくくしているけど、夜逃げしやすい会社が、一番いい会社なんですよ」

家田はユニークな考え方のもち主で、矢野は家田から多くの教えを受けた。

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大下 英治(おおした・えいじ)
作家
1944年、広島県に生まれる。広島大学文学部を卒業。『週刊文春』記者をへて、作家として政財官界から芸能、犯罪まで幅広いジャンルで旺盛な創作活動をつづけている。著書に『安倍官邸「権力」の正体』(角川新書)、『孫正義に学ぶ知恵 チーム全体で勝利する「リーダー」という生き方』(東洋出版)、『落ちこぼれでも成功できる ニトリの経営戦記』(徳間書店)、『田中角栄 最後の激闘 下剋上の掟』『日本を揺るがした三巨頭 黒幕・政商・宰相』『政権奪取秘史 二階幹事長・菅総理と田中角栄』『スルガ銀行 かぼちゃの馬車事件 四四〇億円の借金帳消しを勝ち取った男たち』『安藤昇 俠気と弾丸の全生涯』『西武王国の興亡 堤義明 最後の告白』『最後の無頼派作家 梶山季之』『ハマの帝王 横浜をつくった男 藤木幸夫』『任俠映画伝説 高倉健と鶴田浩二』上・下巻(以上、さくら舎)、『逆襲弁護士 河合弘之』『最後の怪物 渡邉恒雄』『高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿』『映画女優 吉永小百合』『ショーケン 天才と狂気』『百円の男 ダイソー矢野博丈』(以上、祥伝社文庫)などがある。

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(作家 大下 英治)

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