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だから「メタ認知」ができるとグッと生きやすくなる…メタバースと仏教の意外な共通点

プレジデントオンライン / 2024年4月4日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/suriyasilsaksom

俯瞰で世界を見るにはどうすればいいか。僧侶の松波龍源さんは「私たちはいま生きている世界を、唯一無二で絶対性のある現実だと思い、その中で快楽を得たり苦しみを得たりして右往左往している。しかし実はそうではなく、そこからログアウトする感覚でメタな視点を持てば、新しい次元が見えてもっと自由になれる」という――。

※本稿は、松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

■メタバースと仏教の相性がよい理由

「メタバース」は、実は仏教と非常に親和性のある話題です。意外に思われるかもしれませんが、私はふだん仏教について考える際、コンピューターテクノロジーの概念を参考にすることが多いんです。

どういうことか、順を追って説明していきましょう。

メタバースという言葉には「メタ」という単語が入っています。「メタ」は「超える」という意味です。最近では、ものごとを一歩引いた視点から見ること、俯瞰することを「メタ認知」と表現することが多くなりました。

そしてみなさんもご存じのように、仏教のゴールは「さとり」の境地に達することです。「さとり」が何なのかはさまざまな解釈がありますが、私自身は、完全なるメタ認知を獲得し、時間や空間の認知スケールを自由自在にコントロールできるようになることが、「さとり」ではないかと考えています。

今は「メタ認知を獲得すること=さとり」ということがピンとこないかもしれませんが、もう少し読み進めてください。

メタバースといえば、大きなゴーグルをかぶって仮想空間に入り、自分の分身であるアバターを操るイメージがあるでしょう。

実は仏教では、われわれが生きる現実世界を今より一段階メタな世界から見ると、この世界で物理的な身体(ボディ)を持って存在すること自体が、アバターのようなものではないかと考えます。

そもそもアバターという単語は、仏教用語にも多く用いられる古代インドのサンスクリット語で、「化身」を意味する「アバターラ」に由来しているのです。

■この世界も、仏教から見ればメタバース⁉

「この世界」と「メタな世界」の関係について、もう少し考えてみましょう。

私たちは「縦・横・奥行き」のある3次元世界に生きていますから、それより低次元の1次元、2次元を認知することはできます。今お話しした、一段階メタな世界から、この世界を見下ろす感覚と同じです。

逆に、この世界よりも高次元の世界を認知することはできるでしょうか。4次元空間であれば、今いる3次元に「時間」の概念が加わるのだろうとイメージできますが、5次元以上になるとどんな要素が加わるのか、想像さえできませんよね。

以前、「小説の中の主人公は、私に読まれていることを知らない」と言った友人がいて、まさにこのことを表していると思いました。

読書
写真=iStock.com/eclipse_images
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/eclipse_images

また数学を学んだ友人が「7次元や8次元はシュワシュワッとした感じ」と言っていて、この表現も「理解しがたい」という部分では的を射ていると感じます。

それだけの高次元(メタな世界)になると、たとえ数式で表すことはできても、感覚的にとらえるのは現実的ではないということです。

ここで少し難しい話になりますが、仏教では万物の根源、ものごとの本質は「空性(くうしょう)」であると考えます。ひとことで言えば「実体のなさこそ本質である」という意味で、有名な『般若心経』に出てくる「色即是空、空即是色」は、これを表した言葉です。

しかし、「空」とは「空っぽ」という意味のような「無」ではありません。詳しくは本書で解説していますが、あらゆるものが出現できる可能性の海、可能性がストックされている蔵のようなものだと今は想像してください。

■存在したという空間履歴は消滅しない

「空」はさまざまな可能性を有しているからこそ、そのときどきの因果関係に従って、私たちが認知できる何らかの存在や現象として形而下(※)に現れます。

言い換えれば、私たち人間一人一人を含むすべてのものごとは、この世界に何らかの形で現れているけれども、その実体は、可能性としての「空」なのです。

ということは、あなたも私も「空」という可能性の海から、何らかの因果関係に導かれて身体を持った存在として現れ、寿命を迎えれば消えていくと考えることができます。

ここで大事なのは、たとえ死んで身体がなくなっても、存在したという空間履歴は消滅しないということです。

可能性として存在し、可能性の帰結として実体のある時間があり、そういう時間が「あった」という履歴を残して実体は消えていく。

メタバース上でも、私たちがアバターを作成し、アバターを動かしている時間があり、ログアウトをすればアバターは履歴を残して消失します。

そう考えると「空」の世界からすれば、私たちが身体を持って生きているこの世界こそがメタバースではないでしょうか。

つまり、一つ上の世界から見ると、私たちが生きるこの世界がメタバース。そして私たちにとっては、画面に映し出されたアバターの動く仮想世界がメタバース。こんなふうに、世界は入れ子のようになっているのかもしれないと思うのです。

【図表1】入れ子型の世界構造
出所=『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』

■「さとる」ことで、メタ世界の片鱗を見ることができる?

ここで、先ほどの「さとり」の話を思い出してください。メタ認知を獲得し、時間と空間の認知を自由にコントロールできることがさとりではないかとお話ししました(あくまで私の解釈ですが)。

私たちが生きる現実世界から見て一つ上の世界が「空」だとするならば、さとりを開くこととは、普通では感じるのが難しい「空」の世界を直覚できるようになることではないでしょうか。

そうすれば、7次元や8次元がどうなっているのか、その片鱗を感じることができるかもしれません。

そのために、仏教では瞑想をはじめとした修行があるのです。瞑想の極致で脳がある種のトランス状態になると、メタ世界の片鱗が見える可能性もじゅうぶんあり得ます。

私自身も瞑想中、瞬間的に「あっ」というものを感じた経験があります。言語化することが不可能で、これ以上の表現が見当たらないのですが、体験する前と後では、違う自分になっている感覚がありました。

身体のみではなく、かといって心だけでもなく、自分の全存在を通じて「それ」を直覚するのです。

こうした感覚を「一瞥(いちべつ)」といって、「さとり」の瞬間的な体験と考えます。スポーツ選手が究極のパフォーマンスを発揮する瞬間や、宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めて世界観が変わってしまう体験も、同じようなものだと考えられます。

この瞬間的な非言語の状態に留まることができれば、それが「完全なさとりを開いた状態」ということになるのでしょう。

ところで、仏教には完成させるべき三つの智慧、「三慧(さんね)」があるとされます。その三つとは「聞(もん)・思(し)・修(しゅう)」で、「聞」は知識のインプット、「思」はインプットした知識を自分なりに解釈すること、「修」はそれを自分で実践・体感することです。

さとりを開くために修行があると言いましたが、三つのうち「修」だけではさとりの境地に至ることはできません。

前段階の「聞」「思」でしっかり知識を吸収し、その論理を理解しなければ、せっかく修行で「一瞥」を得て、さとりの片鱗のようなものが訪れても「これだ!」と気づかずに、「何かすごかった」と見逃してしまう可能性があるからです。

今はコンピューターテクノロジーが発達し、小学生でもメタバースの感覚を理解できるようになってきています。これを三慧に当てはめると、現代は人類全体が「聞」「思」の準備ができた状態だといえるのではないでしょうか。

■メタな視点で「死」を考えてみる

少し話は変わるのですが、メタバースがあるのですから、「メタ“デス”」があってもよいのではないかと私は考えています。デスはdeath、「死」のことです。

死を迎えるとき、つまり「ここが現実世界だ」と思っている位相空間から退場するとき、われわれは何を見るのでしょうか。

私たちはふだん、メタバース(仮想空間)でアバターを動かして遊び、気が済んだらログアウトして現実世界に戻ってきますよね。

私は思うのです。ひょっとしたら「死」とはこの世からログアウトするようなもので、身体というデバイスを外すことで、一つ上の(メタな)世界が見えるのかもしれないと。

「死」は一般的に、ネガティブなイメージを持たれがちです。けれど、もし「死」が「この世からログアウトする」感覚に近いのであれば、「なーんだ、こういう感じね」と案外、既視感があるのかもしれません。

釈迦牟尼の説法には、「目を覚ましなさい」という言葉がよく出てきます。自分を焼き尽くす煩悩の炎が目の前に迫っているのに、目を開けることなく気づかずにいる。それではいけない、早く目を開きなさい、目覚めなさい、とあらゆる経典で説いています。

また『佛説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)』という経典には次のようなエピソードがあります。

あるとき一人の男が、狂った象に追いかけられて命からがら逃げ惑い、枯れた古井戸に伸びている木の根を伝って隠れようとしました。
しかしその井戸の底には4匹の毒蛇がいて降りることができません。地上では象が猛り狂っています。そしてなんと、男がしがみついている木の根をネズミが囓りはじめました。もはや絶体絶命です。
ところが、その木にあったミツバチの巣から甘い蜂蜜が垂れてきて、男の口に入ります。絶体絶命にもかかわらず、男はもっと蜂蜜がほしくなりました。

これほど恐ろしい状況でも、人間は目先の利益に惑わされてしまうことを物語っていますね。広い視野、つまりメタな視点を持つことがいかに大切であるかを、釈迦牟尼は2500年前から、教えてくれているのです。

これをメタバースの概念に当てはめて考えると、理解しやすいのではないでしょうか。私たちはいま生きている世界を、唯一無二で絶対性のある現実だと思い、その中で快楽を得たり苦しみを得たりして右往左往している。

でも実はそうではない。そこからログアウトする感覚でメタな視点を持てば、新しい次元が見えてもっと自由になれるということです。

■メタ認知を持てると生きやすい

たしかに物理的な身体を持っている時点で制約はありますが、この世界が唯一絶対だと思って生きるのと、メタ認知を持って生きるのとでは、生きやすさが全然違いますよね。釈迦牟尼が「目覚めなさい」と説くのは、そういう意味なのです。

実際に弘法大師(真言宗の祖、空海)が説いている密教の秘義を、コンピューターでいうところの「すべてのものはクラウドでつながっている」「プログラム言語で起動したり操作したりする」といった概念で考えると、非常にわかりやすくなるんです。

松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)
松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)

コンピューターやインターネットがなかった時代の人がその経典を見ても、それが何を言っているか、まったくわからなかったはずです。けれど今の私たちであれば、なんとなく理解できるような気がしますね。

これは、人類の叡智の積み上げに他なりません。まったく分野の異なる叡智が積み重なった結果、仏教が言わんとしたことを遊びながら直感的に理解できる時代が来たのです。

逆にいうと、コンピューターのなかった時代に、今でいうインターネットのような概念を言語化した弘法大師の並外れた知性には、驚くばかりです。

※時間・空間のある世界において認識できるもの。形のあるもの。対義語は「形而上」。

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松波 龍源(まつなみ・りゅうげん)
僧侶・思想家
実験寺院寳幢寺僧院長。大阪外国語大学(現:大阪大学)外国語学部卒・同大学院地域言語社会研究科博士前期課程修了。ミャンマーの仏教儀礼を研究するうちに研究よりも実践に心惹かれ出家。現代社会に意味を発揮する仏教を志し、京都に「実験寺院」を設立。学生・研究者・起業家・医師・看護師などと共に「人類社会のアップデート=仏教の社会実装」という仮説の実証実験に取り組んでいる。

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(僧侶・思想家 松波 龍源)

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