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「ナンとカレー」は現地で"外国食"扱い…"インドカレー店"従業員の故郷を訪ねてわかった驚きの事実

プレジデントオンライン / 2024年4月9日 11時15分

バグルン・バザール(写真=Bkasthapa/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

街でよく見かけるインドカレー店では多くのネパール人が働いている。その多くはネパール中部「バグルン」の出身だという。なぜバグルンの人たちは日本にやってきたのか。ジャーナリストの室橋裕和さんの著書『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(集英社新書)から一部を紹介する――。(第3回)

■「インネパの里」に行ってみることにした

ここまでたくさんの「インネパ」経営者やコックに話を聞いてきたが(第1回、第2回)、彼らの多くに共通していることがある。かなりの人々がネパール中部の「バグルン」出身だということだ。

本書にここまで登場した人たちだけではない。僕はヒマさえあればほうぼうのインドカレー店でランチを食べがてら、店の人と世間話をして自らの「インネパ」解像度を上げる日々を過ごしていたのだが、出身を聞いてみるとバグルンという答えが実によく返ってきた。あとはチトワン、ポカラが多いだろうか。

だがよくよく話してみればもとはバグルン出身で、日本で稼いだお金でチトワンやポカラにいい家を買って移り住んだというケースも定番だった。彼らの話を聞きながら、僕はバグルンへの思いを募らせていった。

首都カトマンズから西におよそ180km。ガンダキ州の西部に位置する郡がバグルンである。古くはチベットとの交易路として栄えたというが、なぜその地域から日本に出稼ぎにやってくる人々が多いのだろうか。そして僕たちがいつも接しているカレー屋の皆さんは、いったいどんなところで生まれ育ったのか。「インネパの里」ともいえるバグルンに、僕は行ってみることにした。

■街のどこを見ても留学や海外就労のポスターがずらり

ネパールを訪れるのは実に20年ぶりのことだ。空港を出ると、タクシーはすぐに大渋滞に吞み込まれた。あのころとは比べものにならないほど交通量が増えているようだ。排気ガスが煙る。運転手が言った。

「クルマは関税が200%以上もかかって高いんだけど、それでも売れてる。外国で出稼ぎしてきた人たちが買ってるね。土地もそう。外国で稼いだお金で投資してる」

海外で働く動きがそれほどに広がっているのだろうか……そう思って旧市街ダルバール広場の北に広がるタメル地区に宿を取り、周辺を歩いて回ってみたところ、ある雑居ビルの前で足が止まった。その外壁は色とりどりの看板で埋め尽くされていた。

「STUDY IN USA」「AUSTRALIA VISA」「JAPAN」「UK」……どれも海外での就労や留学をあっせんする業者のようだ。こんなビルが周囲には林立していた。日本でのカレー屋のコックに限らず、国外での出稼ぎが国の主要産業になっていることを実感する。こうした業者はカトマンズだけでなく、ガンダキ州都にして観光都市ポカラに移動してもやはり目立つ。海外へ誘う看板やポスターを実によく見る。

■現地ではインドカレーは“外食”扱い

この街からは中部ヒマラヤの絶景が見渡せて、トレッキングの拠点ともなっているのだが、観光業よりも国を出ることを選ぶ人々が多いのだろうか。旅行者が集まっているのはペワ湖という湖の周辺だ。その東岸は「レイクサイド」と呼ばれ、ホテルやレストランや土産物屋やトレッキング用品店などが立ち並び、なかなかに賑やかだ。

そして20年前と変わっていたのは、ネパール人やインド人の観光客が「主力」となっていることだろうか。昔は外国人バックパッカーやトレッカーがもっとハバを利かせていたように思う。

チベットの仏具や雑貨を商う店のおじさんに聞いてみると、「コロナ禍で外国人が入国できない時期があったからね。そのぶんネパール人がよく来てくれたよ」なんて答えてくれた。ネパールでも経済力を持つようになった、いわゆる中間層が増えているようだ。その「原資」は、国外での出稼ぎなのかもしれない。

彼らがそぞろ歩くレイクサイドでときどき見かけるのは、インドカレーの店だ。メニューを見ればおなじみバターチキンカレーやチーズナンといった日本の「インネパ」でも定番のラインナップが並んでいて、つい入ってしまう。バターチキンカレーを頼んでみたところ、日本で食べるものよりも少し濃厚な味わいだったが、なかなかおいしい。これがインドやネパールでは「外食」として好まれているのだろう。

バターチキンカレー
写真=iStock.com/Soumen Hazra
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Soumen Hazra

■地元の料理は“インネパ”とはまったく別もの

だが観光客ではなく地元ネパール人が通う食堂に入って、「カナ(ごはん、食事の意)」を頼んでみると、外食用インド料理とはずいぶん違うものが出てくる。

中央に白米が盛られ、そのまわりを囲むように、豆の煮込みスープ、青菜の炒め物、じゃがいもの炒め煮、それに大根の漬物が並ぶ。どれもやや塩気が強いが、あっさりとした味つけだ。どこか日本の山里に通じる味のようにも思った。

カレーが一品つくこともあるが、たいていスープカレーのようなさらさら系で、スパイスも控えめだ。こうしたいわゆる定食的なセットは、豆(ダル)と米(バート)がベースとなっていることから「ダルバート」と呼ばれる。よく日本の「ごはん+味噌汁」にたとえられるが、これがネパール人の食の柱だ。

それは「インネパ」で出されている「ナン+カレー」とは、別の根から生えている柱のようにも思える。世界が違うのだ。

ネパールは南の大国インドの影響が大きく、インド料理も浸透してはいるのだが、家庭で出されているのはあくまで根の異なる「カナ」だ。それを食べて育ったネパール人が、日本にやってきてインド料理のコックになるというのは、かなり飛躍した挑戦なのだと、僕はダルバートを食べながら実感した。日本人が海外に行って中華料理のコックになるようなものだろうか。

ネパールの食事
写真=iStock.com/sinseeho
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sinseeho

■地方に来ても出稼ぎあっせん業者が目立つ

僕はポカラからバスに乗り込んだ。市街地を出ると、すぐに山道へと入っていく。ところどころで舗装が切れ、河原のようなガタガタ道や、ガケすれすれのスリリングな細い道をどうにか走っていく。途中で一度、後輪がパンクし修理に2時間ほどかかったりもした。交通インフラは20年前とあまり変わっていないようだった。

わずか50km程度の距離なのに半日近くかかって到着したバグルン郡の中心地、バグルン・バザールは、その名の通りなかなかに賑やかな場所だった。幾筋もの道に商店があふれ、色とりどりの服や食品や雑貨やスマホや家電やらが並ぶ。なるほどバザールだ。古くから交易の拠点だったという話を思い出す。そして街を見下ろすように、白銀の峰が美しくそびえる。標高8167mを誇るダウラギリだ。思わず見とれる。

なんとも風情のあるヒマラヤのフトコロの市場といった感じだが、こんな地方に来てもやはり目立つのは海外出稼ぎのあっせん業者だ。それも「日本行き」を謳(うた)う会社が多い。

「バグルン・バザールは小さな街ですが、うちみたいな企業が10以上あるんですよ」

日本語学校を営むクリシュナさんは言う。

■若い人がどんどん減り、過疎が進む集落も

古びた雑居ビルの2階に小さな教室がふたつ。黒板にはたどたどしい日本語が書かれている。壁には日本の地図や、「あいうえお」の50音表も貼られていた。10代から30代まで150人ほどの生徒が学んでいるそうだ。

「ここで日本語を学んで、沖縄、福岡、広島、大阪などの日本語学校に入ります。向こうで日本語を勉強しながらアルバイトで稼いで、卒業したら日本の会社に入って、家族を呼ぶ。それが生徒たちの目標です」

ネパールのダルバール高校
写真=iStock.com/AnnaTamila
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AnnaTamila

留学生を送り込むには、日本にある仲介業者を通すこともあれば、学校同士で直接アプローチし合うこともあるという。学費は12万〜16万ネパールルピー(約12万〜16万円)だが、日本に渡航するとなると、この学校が取るコミッション、航空券やビザ、日本側の学校の入学金や授業料などもろもろ合わせて160万ネパールルピー(約160万円)は必要になってくるという。それだけのお金をどうやって用立てるのか。

「親戚を回って借金をしたり、土地を担保にして銀行から借りたりしますね」

そう説明するクリシュナさんの表情は浮かない。聞いてみれば、どうもこのビジネスに疑問を感じているようなのだ。

「留学生だけじゃないんです。工場や、それにカレー屋で働くために、バグルンからたくさんの人たちが日本に行っています。だから小さな村はもう、働き手がいなくなって、年寄りばかりなんです。おじいちゃんおばあちゃんたちが、日本に行った子供の代わりに孫の面倒を見ている。親の愛情を知らずに育つ子供がどんどん増えている」

村の若者が丸ごと日本に行ってしまったような集落まであるのだという。だから畑は荒れ、打ち捨てられた家屋が残され、老人ばかりでは不便な山間部で暮らせなくなってしまったため、ここバグルン・バザールに降りてくるケースが増えている。

■親がいないために非行に走る子供たち

「村では野菜や米くらいは自分たちで育てられたから、お金があまりなくても生活ができたんです。でもバザールでは違います。なんでもお金を出して買わなきゃならない。現金が必要です。だからまた若者たちが出稼ぎに行く」

海外出稼ぎがあまりに増えすぎたため、伝統的な自給自足の社会が崩壊しつつあるのだ。そして取り残された子供たちがなにより心配なのだとクリシュナさんは言う。

「年寄りだけではケアしきれません。親の愛をもらえていないんです。だから悪いほうに行ってしまう子が増えている。ドラッグとか、アルコール依存症とか。地域で大きな問題になっているんです」

僕は日本で出会った何人もの「インネパの子供たち」の顔を思い浮かべた。言葉や文化の壁で苦労していた子ばかりだ。それでも、祖父母のもとに置き去りにするよりはと、カレー屋の親たちは無理をしてでも子供を日本につれてくるのだろうか。こんな問題が広がっていても、「日本行き」を目指すバグルンの人々は多いし、こうして語学学校も乱立している。

■昔は田畑で働いているだけでよかったが…

「仕事がないからです。家族親戚の中で収入を得ているのはたった2、3人なんてところも多いです。その2、3人ももらえて月に1万ルピー(約1万円)くらい。これでは生活ができません。昔は田畑で働いているだけでよかったのですが」

ネパールの山間部だっていまや資本の荒波に洗われている。モノがあふれるようになったし、それを買うための現金が必要だ。世界的物価高の影響も大きい。スマホもいまでは生活インフラのひとつだ。誰もがFacebookやTikTokを使いこなしている。

「みんなiPhone14が欲しいんですよ」

自嘲気味にクリシュナさんは呟いた。そしてお金のために山を出て、カトマンズすらすっ飛ばして海を越え、日本に渡る。残された里は過疎化していく。それでいいのかと感じながらも、クリシュナさんはこの学校を続けている。

「いろいろな問題があっても、バグルンの人にとって日本行きは希望なんです。だからこの仕事をやっています。家族や村が壊れてしまうことに手を貸しているような気持ちになることもあります。でも、日本語学校の需要はとても大きいんです。私がやらなくても、ほかの誰かがやりますよ」

ネパールの田んぼ
写真=iStock.com/robas
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/robas

■来日経験のある人たちで溢れる街

どこに行っても日本語が通じる町バグルン・バザールを歩いていると、日本語で声をかけてくる人が次々に現れる。

「東京の新大久保に住んでコックをやってたよ。駅前の『鳥貴族』、よく行ったね。懐かしいよ。いまは近所で雑貨屋やってる」
「工場で働いてたけど、コロナで減産になって帰ってきた。日本は楽しかったけど、日本人は働きすぎだよ」
「横須賀のカレー屋でいまも働いてる。ちょっと帰省してるんだ」

なんと「NISSAN MOMO」という食堂まで見つけた。チベット・ネパール風の水餃子モモを出しているのだが、なぜNISSANなのか店主に聞いてみれば、「父親とその友人が栃木県の日産工場で働いてたんだ。この店はそのお金で建てた。俺もいま日本で働けるようビザをアプライ(申請)してるとこ」なんて話す。

真鍮(しんちゅう)の食器屋に入ってみれば、「うちの食器を買って、日本に持っていく人が多いんだ。自分たちが働いているカレー屋で使うって」と教えてくれる。きわめて「日本濃度」が高い街なのだ。

ちなみにバグルン・バザールからすぐ東には、カリカ・バガワティ寺院というヒンドゥー教のお寺がある。由緒正しい名刹で、参拝者で賑わっているのだが、「インネパ」の中にはこの「カリカ」から名前をもらっているレストランもある。

■在留資格を取るために飲食店を開業

僕がときどき行く店もやはり「カリカ」を冠しているが、そこのママさんもバグルン出身だ。

「カリカはヒンドゥー教でカーリーって呼ばれる女神さまのこと。人気の神さまだからお店の名前にする人が多いね。そっちの意味もあるけど、バグルン出身の人はこっちのお寺をイメージして名前をつける人もいっぱいいるよ」

そう教えてもらったのを思い出す。さらにバグルン・バザールを歩いていると、声をかけてきたのは台東区でカレー屋を経営しているというクマルさんだ。彼に誘われ、バザールの中にあるネパールスタイルの居酒屋にやってきた。セクワという焼き鳥が山盛りで出てきた。クミンやターメリックなどでマリネして、炭火焼きにしたやつだ。

「弟に持たせた店で、オープンしたばかりなんです。その準備もあって、いま一時帰国しているところで」

室橋裕和『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(集英社新書)
室橋裕和『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(集英社新書)

弟もやはり日本行きを考えていたが、ビザが下りなかったそうだ。

「いま日本は、コックのビザ難しい」

クマルさんはため息をつく。コックはおもに調理の分野で「技能」の在留資格を取得して日本で働くわけだが、そのためには現地でコックとして10年以上の経験が必要だ。これを証する書類の偽造が横行してきた。実在しない店の在職証明書がばんばん出回ったのだ。

そのためいま日本の入管は、ネパール人コックに対するビザの審査を厳しくしている。それなら、こうして「実在の店」を用意すれば、年数はともかく家族親戚に「職務経験」を用意することができる……。クマルさんにはそんな思いもあるようだった。

■「出稼ぎするか否か」という深刻な葛藤

ともかく日本行きが叶(かな)わなかった弟、日本ではコックからうまく立ち回って経営者になっている兄、さらにサウジアラビアで建設作業員をしていたという友人、「俺は絶対にネパールに留まる」という人も現れて、飲み会となった。ロキシーというヒエからつくった蒸留酒が進むたびに、座は乱れる。

「どんどん海外に行って家族のために稼ぐべきだ」
「ネパールのためには海外ではなくこの国でがんばるほうがいい」
「海外で稼いだお金でもっと新しいビジネスをはじめればいいのに、みんな土地の投資ばかりだ。産業がなにも育っていない」

意見は割れ、酒の勢いもあって言い合いになる。国を出て出稼ぎすることが是か非か。日本で「インネパ」を営む人々も、僕たち日本人を笑顔で出迎えながら、こんな葛藤を抱えているのだ。

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室橋 裕和(むろはし・ひろかず)
ジャーナリスト
1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発の日本語情報誌に在籍し、10年にわたりタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のジャーナリストとして活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。現在は日本最大の多国籍タウン、新大久保に在住。外国人コミュニティと密接に関わり合いながら取材活動を続けている。おもな著書は『北関東の異界 エスニック国道354号線 絶品メシとリアル日本』(新潮社)、『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』(角川文庫)、『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)、『ルポ コロナ禍の移民たち』(明石書店)、『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(集英社新書)などがある。

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(ジャーナリスト 室橋 裕和)

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