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「おじさん」ドゥンガとの幸運な出会い。福西崇史が語る、プロの世界で生き抜くセルフマネジメント術

REAL SPORTS / 2021年12月3日 11時59分

REAL SPORTSでは11月14日にオンラインサロン『田村Pのココだけの話』とのコラボ企画として、特別講師に福西崇史さんを迎えて『サッカーから学ぶ』と題したサッカー教室&公開インタビューを実施。大盛況となったイベントを通し、福西さんに選手時代を支えた“セルフマネジメント術”について伺った。その考え方を一つ一つひもとくと、厳しいプロの世界で生き抜く方法や、相性の悪い監督との接し方など、実生活にも共通する処世術が詰まっていた。

(インタビュー=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=夏井瞬)

「はしにも棒にもかからなかった」ジュビロ磐田加入当時   

――福西さんは1995年にジュビロ磐田でプロキャリアをスタートされました。

福西:受け入れてくれるクラブがジュビロしかなかったんです。

――ジュビロは前年の1994年に元イタリア代表のサルヴァトーレ・スキラッチ、藤田俊哉さん、服部年宏さん、田中誠さん、奥大介さんらが加入。福西さんと同年に現役ブラジル代表でキャプテンを務めていたドゥンガ、名波浩さんも加入し、その後に迎える黄金期へ向けて着々と有能な選手をそろえている準備段階でした。

福西:1993年にJリーグが開幕して、ジュビロは翌年の1994年にJリーグに入ったんですけど、その時にはもう大学ナンバーワン、高校ナンバーワンという選手たちがいっぱい集まっていたので、僕はもう全然、はしにも棒にもかからなかったんです。

 ジュビロの環境も厳しかったんです。トップチームはけっこう優遇されるわけですよ。僕は最初サテライト(2軍)に入るんですが、そこでは、練習着の洗濯も自分でとか、トップの選手と同じ施設を使えないとか、トップに上がらないと優遇しませんよという、ハングリー精神を鍛えるような仕組みだったんです。

 だからこそ、まずは何とかトップチームに上がらないといけないと必死でしたね。やっぱりプロの世界なので、通用しなかったら「戦力外」になっちゃうので、純粋にそこで生き抜くことが最初の壁でした。

――あれだけうまい選手たちがいるチームの中で、どういうふうに考えて行動してレギュラーポジションをつかんだのですか?

福西:ポジションのコンバートが功を奏しました。もともとは点を取る選手としてフォワードで入ったんですけど、そこでは何も通用しなくて、守備的なポジションのボランチに転向することになりました。転向後も、テクニックじゃ勝てないわけですよ。じゃあ、体と頭だなと。動き方とかボールの取り方とか、テクニックじゃないところを徹底的に強化しました。

――これまで経験したことのないポジションにチャレンジすることに不安はありませんでしたか?

福西:当時のハンス・オフト監督からサテライトの監督を通じて打診されて、二つ返事で決断しました。もちろん不安はありましたが、プロ選手として生きていくための手段としてすぐに受け入れました。まったく新しいことへの挑戦だったので、ボランチなら絶対にレギュラーをつかめると思ってやっていたわけでもないですし、常に危機感を抱きながら、試行錯誤の毎日でした。その上で僕に運があったのが、ドゥンガがいたことですかね。


プロデビュー&コンバート初年に隣にいた“世界一のボランチ” 

――当時ボランチで世界最高峰の選手の一人がドゥンガでした。

福西:1994年の(FIFA)ワールドカップで優勝したブラジル代表のキャプテンだったドゥンガが、翌年ジュビロに加入して、僕がジュビロに入ってボランチになったのも同じ1995年。初めてボランチでプレーし始めた時に、隣に世界一がいたわけです。

――さらにドゥンガは現役時代から監督以上に味方の選手に怒り、熱く指導する姿が印象的な選手でした。

福西:はい、最初はもうめちゃくちゃ怒られました。ドゥンガが嫌いになるぐらい怒られましたね。ただ、常に愛情を持って接してくれる人でもありました。グラウンドの中ではめちゃくちゃ厳しいですけど、ピッチを離れればめちゃくちゃ優しい、普通のおじさん。日本に来た時は32歳くらいだったんですが僕は「おじさん」と呼んだりしていました(笑)。オンオフのメリハリや、ピッチに入った時のスイッチの入れ方など、世界基準のプロ意識というのは彼からその時に学びましたね。

――プロデビューした年に世界のナンバーワンが隣にいたというのは、本当に幸運もありましたね。

福西:いや、かなり幸運じゃないですか。そもそも高校時代に違う選手を見にきたジュビロのスカウトがたまたま僕を見つけてくれたことも含めて。

 さらにドゥンガは走らないタイプのボランチで、僕も走るのが苦手だったので、タイプ的にも似ていました。なので、どうやったら走らないでサッカーができるかは、彼からいろいろと学びました。

 でもテクニックは全然違いましたね。シンプルなプレーがめちゃくちゃうまいんですよ。だったら僕もそこを目指そうと。ボールをこねたり、ドリブルして抜くということよりも、とにかくシンプルに確実にプレーして、キックを正確にということを心掛けてやったのが僕の特長にもうまく合って、その後のベースとなりました。


「おじさん!」って叫んでドゥンガを呼び止めると…

福西:ドゥンガとは面白いエピソードもあって(笑)。2010年に南アフリカでのワールドカップで、彼はブラジル代表監督だったんですよ。その時、僕は日本のメディアとして現地に行っていたんですね。

――当時のブラジル代表は優勝候補の筆頭として挙げられ、世界中から大きな注目を集めていました。

福西:さらにドゥンガは当時「笑わない監督」と言われていて。記者会見でも笑わないんですよ、本当に。さまざまなプレッシャーや圧力もかなりあったんだと思います。挨拶したいなと思ったんですけど、警備体制もすごく厳格で全然近づけなくて……。もうどうにかドゥンガに気づかせなきゃいけないなと思って、日本語で「おじさん!」って叫んだんですよ(笑)。

――世界中のメディアが集まる中で、その行動が取れる勇気がすごいです(笑)。

福西:僕が「おじさん!」って言った瞬間に、ドゥンガがふっと振り向くわけですよ。そして僕に気づいたら、二人してもう一気に笑うでしょう。その瞬間に世界中のカメラマンがガシャガシャガシャガシャって「笑わない監督の笑顔」の貴重なシャッターチャンスを必死に撮影していて(笑)。

 結局ちょっと話もできたんですよ。警備員には止められたんですけど、ドゥンガが「いいよ、いいよ」って迎え入れてくれて。その後は「お前、誰だ?」って逆にちょっと僕が世界中のメディアから話題になっていました(笑)。 


「結果を出していれば、外されることはない」

――ドゥンガとの幸運な出会いもあり、ボランチとして確固たる地位を築き、日本代表としてワールドカップも2度経験された福西さんですが、監督と考え方が合わなかった時、自分自身が評価されていないと感じた時には、どのように対処していたのですか?

福西:合わない監督もいましたよ。特に2002年は……。

――当時日本代表のフィリップ・トルシエ監督ですね。

福西:はい。厳しい監督で。人としては好きですよ。ただサッカーのやり方としては、僕とは違う考えの監督でした。規律を重んじるタイプなので、自由にプレーすると嫌がる監督なんですね。そういった考え方の合わない監督の時は、基本的に従いながらやりました。従わないとメンバーから外れるので。これはもうしょうがない。

――次から呼ばれなくなっちゃうわけですね。

福西:いわゆる一つの組織なので、例えば会社に所属されているのと一緒だと思います。組織のトップがメンバーを選ぶので、そこに入るためには、まずは相手のやり方でやる。その中で、グラウンドに立ったら比較的自由にというか、そこでどう自分を出すかバランスを取りながらやっていました。

――でも、規律を重んじる監督の場合は、自分を出そうとすると「あいつまた勝手にやっているぞ」となりかねません。

福西:言われますよ。でも、結果を出せば、ある程度は抑えられる。ギリギリ許される範囲内でバランスを取りつつ、結果を出していれば、外されることはないと思います。

――一般的な会社組織とも共通している部分がありますね。

福西:僕は共通する部分は多いと思っています。選手にとっては会社組織でいう社長が監督なわけで、その監督に選ばれなかったら、活躍する場もない。まずはメンバーに選ばれないことには何も始まりません。その中で、じゃあ監督に言われたことをやっているだけの選手が日本代表になれるかといえばそれは難しい。与えられた役割をこなしながら、そこでどれだけ自分を出して、自分の得意なことをやって、結果を出せるかというところは、サッカーもビジネスも同じだと思います。


「人のことは常によく見る」「どうしてほしいと考えているのか」

――どの監督になっても、その人のタイプをまず把握するんですか?

福西:把握しますね。僕は人のことは常によく見ます。自チームの監督に対してもそうですし、試合中もそうです。この人、どんなことが好きなんだろうなとか、どういうプレーがやりたいんだろうなとか。その意味では監督からすごく嫌われるという経験はなかったですね。こちらから合わせにいかなきゃいけないなというのは多少ありましたけど。

――結局そこでちゃんと合わせていける人だからこそどのチームでも主力として活躍できたのではないかと感じます。引退して解説者のお仕事を始められてからはいかがですか?

福西:実況者と合わせるのは一番意識していますね。パートナーになるわけじゃないですか。この人たちとギクシャクしたら、90分間ずっとギクシャクでしかないわけですよ。なので僕はどちらかというと、パートナーの実況者がどんなやり方かなとか、そっちを重要視しています。

――解説者以外の仕事も含めて、現役を引退してからの仕事で心掛けていることは?

福西:常にコミュニケーションは取ろうと思っています。交友関係もそうですし、仕事の時のクライアントさんがどうしてほしいと考えているのかとか。例えば子どもたちにサッカーを教える場だったら、子どもたちが「しっかり教えてください」となっているのか、「楽しくやりたい」のかで、やるべきことは変わると思いますから。

――では最後に、今後のキャリアはどう考えられているんですか?

福西:一つは、監督。あとは、サッカー界を盛り上げるということを考えたら、日本全体のサッカーのレベルを上げなきゃいけないと。そうなってくると育成年代の指導者に対してもアプローチができたらいいなというふうには思っています。今、本当にたくさんの子どもたちがサッカーをしているので、指導者側にももっと知識があったりとか、指導力があったら、めちゃくちゃ子どもたちのレベルは上がる。そうすると、おのずとトップも上がっていくわけです。そういうアプローチができたらいいなとも考えています。

<了>





 

PROFILE
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年9月1日生まれ、愛媛県出身。新居浜工業高校を卒業後、1995年にジュビロ磐田に加入。不動のボランチとしてJリーグ年間王者3回、アジアクラブ選手権優勝など磐田の黄金時代を支える。日本代表としても、2002年日韓ワールドカップと2006年ドイツワールドカップに出場。2007年にFC東京、2008年の東京ヴェルディを経て、2009年1月に現役引退。引退後は、主にNHKサッカー解説者として活動。2018年に南葛SCで現役復帰し、翌年には監督を務めるなど活動の幅を広げており、現在はサッカー普及のためにYouTubeでの活動も行っている。

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