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82年前の東京初空襲 「鮮明に記憶残る」民間無差別攻撃のはじまり

産経ニュース / 2024年4月19日 22時53分

大好きなピアノを弾きながら、笑顔を見せる真野和雄さん=東京都江戸川区(大森貴弘撮影)

昭和17年4月18日、東京は初めて米軍の空襲に見舞われた。10万人以上が犠牲になった東京大空襲の3年前だ。パールハーバー(真珠湾攻撃)の報復や米国内の戦意高揚などが目的で、被害規模は後の空襲と比較すれば少ないが民間人を無差別に狙った点は共通している。これを皮切りに2度3度と空襲を経験した人も少なくない。

江戸川区の真野和雄さん(93)は、東京初空襲の日を今も鮮明に記憶している。

当時は本所区(現墨田区)の横網地区に住んでいた。学校から帰宅してくつろいでいると、周りが急に騒がしくなった。「何か変な飛行機が飛んでいるぞ」。近所の人が叫びながら、次々と外に飛び出していた。

「その頃は勝ち戦ですからね。パン屋もレストランも開いていたし、金さえ出せばいい物が食べられた。米軍機が来るなんて思いもしませんよ」

真野さんは小学校(国民学校)の6年生。「変な飛行機」と聞いて絶対に見てやろうと思った。

「自宅の隣が材木置き場になっていて、大きな屋根がかけてあったんですよ。2歳下の弟や友人らとみんなでよじ登って空を眺めたんです」

北の方に、きらきらと光る派手な色の飛行機が低空を悠々と飛んでいるのが見えた。後に、荒川区の尾久地区を空襲したB25だったと知った。

「その時はきれいだなと思ったくらいで。のんきなものでした」

米軍の日本本土空襲は昭和19年末から本格化する。20年2月の大規模空襲では、撃墜された日本軍機も目撃した。

「空からきらきらしたものが落ちてきて、最初は米軍機だと思って万歳をしたんです。でもちぎれた翼に日の丸が見えた。誰かが大きな声で『敬礼』と号令をかけたので慌てて続きました」

20年3月の東京大空襲で自宅が焼かれ、仙台市に疎開した。だが、この時期の日本に逃げ場はなかった。疎開先で再び、仙台大空襲に遭った。仙台では家族と離れ、父の知人宅に身を寄せていた。近くの防空壕(ぼうくうごう)に逃げた知人一家を「ここにいたら死んじゃう」と無理やり連れだし、横穴式の大きな防空壕に移った。

翌朝、家の周りは焼け野原になっており、とどまっていたら確実に死んでいたと思った。

「何度も空襲を経験したから何となく分かったんでしょうね。空から焼夷弾(しょういだん)が降るときってね、ゴーという電車のような音がして、止まったと思ったらシュルシュルと高い音に変わって落ちてくる。音がするたびに側溝に伏せるんですよ」

真野さんは被災を繰り返す中、慣れるのではなく怖さが増していったという。

7年ほど前から、自身の空襲体験を語るようになった。経験者が次々に亡くなっているからだ。「近所の人たちも命を落としたし、最初は覚悟がいりました。でも今は吹っ切れました。淡々と話すだけですよ」。戦後、怖いものはなく、音楽の道を突き進んだ。大好きなピアノを弾きながら、命尽きるまで自然体で語り続けるつもりだ。(大森貴弘)

東京初空襲は空母からB25爆撃機16機を発艦させて行われたもので、同時に横浜や神戸など全国各地が攻撃を受けた。子供を含めた民間人ら87人が犠牲になり、重軽傷者は450人に上った。家屋の被害は400戸近くとされる。

本土空襲に詳しい石橋星志学芸員(すみだ郷土文化資料館)は「『死んだのは敵である』というプロパガンダのもと、米国は終始一貫して無差別空襲を続けた。空襲自体が無差別性を帯びるものであり、たとえ戦争でもしてはいけないことがあると強調したい」と語る。

その上で「この空襲によって、住民の初期消火の重要性がより強く訴えられるようになった。空襲が本格化したとき、住民が逃げるタイミングを失し被害拡大につながった可能性もある」と指摘している。

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