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「母親なのに、ひきこもりやがって」優しかったはずの夫がなぜ…48歳主婦に訪れた悲劇と不登校になった子どもが気づかせてくれた“本当の自分”

集英社オンライン / 2024年4月6日 12時0分

トイレで衝動的に裸になったひきこもり48歳女性「人でいたくなくなった…」泣いて謝るだけの母と取り合わない父の手で精神科病院に連行…それでも消えなかった家族への罪悪感〉から続く

繊細過ぎて親にも言いたいことを言えず、過食嘔吐をくり返すなど苦しんできた野中絵里子さん(仮名、48歳)。就職したが、新しい環境に慣れることが難しく、精神のバランスを崩し入院。結婚後も1年ほどひきこもっていたが、「休んでていいよ」という夫の言葉で元気になった。だが、子どもが生まれると夫婦の関係が一変して――。(前後編の後編)

【画像】子どもの送り迎えで人から声をかけられないようにしたこと

(前編)はこちら

“我慢と怒り”に気付いて夫と大喧嘩

母親である野中さんの気質を受け継いだのか、子どもは2人とも繊細だった。下の息子は特に敏感で、出産直後から大きな声で泣いて眠らず、産婦人科の先生に「怒りんぼちゃん」と言われたほど。

退院してからも、ずっと抱っこして縦に揺れていないと泣くので、ろくに休めなかったが、1人で懸命に子育てをした。もともと自分に自信がない野中さんは「役に立たないと存在してはいけない」という思い込みがあったからだ。

娘が小1、息子が幼稚園の年少のときに、親戚の女性と子どもがしばらく滞在することになる。女性はしきりに自分の夫への不満を口にした。

食べた食器はそのままで洗わない。洋服は脱いだら脱ぎっぱなし。頼めば子どもと遊んでくれるけど不満げにやる……。

「うちの夫の親族は皆、母親なんだから何でもやるのが当たり前だろうという感覚だったし、私の育った家庭もそうでした。だから、私も仕事をしている夫に感謝こそすれ手伝ってと言ったことはなかったんです。でも、彼女の話を聞いているうちに、私だって夫にしてほしいことがある、ずっと我慢していたんだと気付いちゃったんですね。それでちょっと夫に不満めいたことを言ったら、『やばい、こんな人だったっけ』ってくらいに、めっちゃ怒り出して。私も彼への怒りが止まらなくなって、大喧嘩になったんです。
 

私はそれまで怒りを出したことがないから、ずっと押し込めてきた本音を言うぞと思ったら爆発して。激高じゃないけど、おかしい状態に見えたんだと思う。私は思っていることを口にしてるだけなのに、また病院に行けとまで言われて……。

要は、旦那としては、いつも機嫌よく何でもしてくれる妻が家にいないのは困るから、一刻も早く病院に入れて、もとの私に戻ってほしかったのでしょう。結局、だまし討ちみたいにして精神科病院に連れて行かれたんです」

話を聞いてくれない夫に絶望してひきこもる

3回目の入院でも拘束され、感情統合失調症と診断される。入院中は親戚の女性と夫の母が家事をしてくれ、夫は息子たちと一緒に寝て、母親がいない不安をやわらげてくれた。退院後は双方の母親がひんぱんに来てくれたが、それもストレスが溜まる要因に――。

「薬を飲むとぼんやりするし、頭痛いし、だるいし、調子悪くて寝ているのに、主人のお母さんが『生ものが届いたから、今から行くわ』と持って来てくれて、ちょっと今はしんどいかなみたいなことが結構あって。ありがたいから、ちゃんともてなしたいのに、来られたら困ると思うことも、やっぱり申し訳ないと罪悪感を持っちゃうし。
 

うちの母は自分があげたいものを持ってくるから、私が欲しいものを頼むと、それは……みたいな顔をされるので、じゃあやめとくか、みたいになっちゃうし。まあ、それは昔からですけどね」

野中さんは子どもたちにはちゃんとご飯を食べさせたいと頑張って作り、あとは疲れて横になって過ごすことが多かった。

大変だったのは息子の幼稚園への送迎だ。あいさつもしたくないので、マスクやサングラス、眼鏡をかけて顔を隠して、声をかけられないようにした。幼稚園の帰りに「公園に寄りたい」と言われても、「お母さん、頭痛いから無理」と言って真っすぐ帰宅。息子は1人でテレビを観ていることが多かったという。

「どこも行けなくて、ごめんね」

謝ってばかりいると、あるとき息子がこう言ってくれた。

「お母さん、謝んなくていいよ。悪いこと、してないじゃん」

こうした家族以外とはほとんど話さない、ひきこもり状態は2年くらい続いた。前回に比べて、長く続いたのには理由がある。
 

「夫は『休んでいいよ』とやさしく言ってくれる人だったから、私のことをわかってくれていると思っていたんです。それなのに、病院に入れられて……。両親だけでなく、この人も私の話を聞いてくれるわけじゃないんだ。信じていたのに、結局、私のことをわかってくれないのかと、生きる気力がなくなったんだと思います。

でも、子どもを残しては死ねない。だから夫への不信感はあっても、子どものために家族でいることを選んだんです」

子どもの不登校を機に動き出す

ひきこもり状態から脱したきっかけは、娘の不登校だった。小3の夏休み明けから、月曜日になるとお腹が痛いと言ったり、吐いたり。どんな気持ちか聞いても、泣きながら「わからない」とくり返すのを聞いて、娘にこう声をかけた。

「学校に行くのをやめようか」

野中さんは毎週のように学校に行って教師と話した。教育相談センターのカウンセラーにも相談。学校に行かないことで罪悪感を持たないよう、授業と同じ内容を家で教え、給食に似たメニューの昼食を作り、放課後は外に連れて行ったという。

「私のような生きづらさを感じないよう、何とかしてあげたい一心でしたね」

4年生から登校できるようになり、ほっとしたのもつかの間、頑張り過ぎた疲れもあったのか、野中さんのほうがまたバランスを崩してしまう。前回とは違い、興奮することもなく、冷静に「病院には入りたくない」と言ったが、夫は聞いてくれなかった。

「暴れてもいないし、自殺の恐れがあったわけでもないのに拘束されたんです。そのときは正気だっただけに、本当にしんどくて。人としての尊厳がそこなわれ過ぎて、自尊心も何もなくなるし。怒りとかじゃなくて、ひたすら悲しくて……」

退院後はまた家にひきこもった。体調には波があり、調子がいいときは息子の野球の送迎もできたが、起き上がれないときはママ友が手伝ってくれた。いつもは夫が出かけたら寝るようにしていたのだが、ある日、しんどくて夫がいても寝ていたら吐き捨てるように言われた。

「アピールすんなよ」

同じ気質を持つ人たちとの出会い

このときも動き出すことができたのは、やっぱり子どものためだ。

今度は下の息子が小3の夏休み明けに学校に行けなくなってしまったのだ。息子は社交的で活発だけど、感受性が強く繊細なところもある。その少し前に書店で、『大人になっても傷つきやすいあなたへの……』と書いてある本を見つけ、「私のことじゃん!」と思って読み、自分も息子もHSP(Highly Sensitive Person)に違いないと確信した。

HSPの情報を学校側にも正しく伝えるため、野中さんはHSPとは何かを学ぶ講座に通うことにした。知らない場所に行くのは怖かったが、好きな香りのアロマをお守りのように持ち、眼鏡をかけスカーフを巻いて身体をガードして、やっとの思いで電車に乗って出かけたそうだ。
 

「私の場合、1人で頑張り過ぎて、バンって弾けちゃって病院に連れていかれることになった。でも、精神科で医療行為を受けたことが、自分にとっては心の安心にはつながらず、逆にしんどさが増してしまった。薬を飲むとかえって具合が悪くなったし、なんで拘束されなきゃいけなかったんだと今でも疑問に思っています。

だから、息子が安心できる生活が一番いいんだろうなと思って。ある意味、自分がしてほしかったことを、息子と一緒に探した感じですね。登校するかしないか自分で選んでいいよと伝えて、3年間さみだれ登校をしましたが、中学に入ってからは毎日登校しています」

HSPの会にも参加して、同じような気質を持つ人たちの話をたくさん聞いたことで、自分のことも外側から客観的に見ることができた。

「そもそも人は皆違っていていい。人と違っていても共感してもらえるんだと知った。精神疾患の人と暮らす大変さもいろいろ聞いたから、自分のときも仕方なかったのかなと、だいぶ思えるようになりましたね」

心が砕けた夫の衝撃的な言葉

長年にわたる生きづらさの正体がわかり、ようやく前を向くことができたのだが、試練はこれで終わりではなかった――。

3年ほど前に卵巣がんになり、治療の影響もありホルモンのバランスが崩れて、更年期のような症状が出てしまったのだ。不安定な様子を見て、また夫は精神科に連れて行こうとする。

自分を精神病の患者として見る夫の目から逃れたくて、野中さんは自室にこもって抵抗した。また病院に連れて行かれたら「心が死んでしまう」と思ったので、近所のママ友に「助けてほしい」とSNSでメッセージを送ると、理学療法士の資格を持つ友人が来てくれた。アドバイスに従い婦人科を受診。ホルモンを補充するテープを貼ると、ウソのように症状が落ち着いた。
 

1週間ぶりに部屋から出てきた妻に、夫は高圧的な口調で言った。

「母親なのに、ひきこもりやがって」

そのときの夫の怖い顔が野中さんは忘れられないという。

「俺に歯向かったなみたいな感じで、たぶん敵認定されたんじゃないのかな。その一言でドカンってきて、私にとっては惑星が粉々になるぐらいの衝撃でしたね」

それ以降、野中さんは夫と心の距離を置いている。日々の母親業をこなすため、何も感じないように仮面をかぶり、極力目を合わさないようにして、笑顔を浮かべることもしなくなったそうだ。

がんは早期発見だったとはいえ、一度は自分の死を意識したことで、子どもたちへの接し方も変えることにした。

「それまでは母親だから何でもしてあげなくちゃと頑張ってやってきたけど、私がいなくなっても困らないよう、1人で何とかできるようにしたほうがいいんだろうなと思ったんです。全部本人に任せて、予定も子どもから言うまで聞かない。それで、うちの子だけお弁当持って行かなかったこともあるけど(笑)、本人は帰ってから食べればいいと思ったと言うから、まあいいかと」
 

自分の気質を理解した上で、ほどよく力を抜いて、何事も我慢し過ぎないコツをつかみつつあるという野中さん。少し前から雑貨店で販売の仕事も始めた。

「夫のことは今でも愛しています。それなのに、本音で話せなくなってしまったから、すーごい寂しいし、つまんない。私がもっと精神的に自立したら、また、夫と笑いあえるかなと思っています」

きっぱりとした顔でそう言うと、野中さんは弾けるような笑顔を浮かべた。
 

〈前編はこちら〉(前編)『トイレで衝動的に裸になったひきこもり48歳女性が抱え続けた家族への罪悪感』

取材・文/萩原絹代 写真/Shutterstock

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