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インスタ、X、フェイスブックでドヤっても「あなたの欲望には決して真の満足が訪れない」人が絶えず誇示へと駆り立てられるメカニズムとは?

集英社オンライン / 2024年4月19日 11時0分

友人、同僚、見知らぬ他人をうらやましく感じた経験は誰しもあるだろう。「嫉妬」という感情が人々にどのよう作用し合っているか、数多くの文献や事象を考察しながら論じた書籍『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』。本記事は書籍より現代人がソーシャルメディアで繰り広げる「誇示行動」について説明した箇所を一部抜粋・再構成して紹介する。

ソーシャルメディア時代の誇示

現代社会は、大衆化の延長線上にある。こうした傾向に拍車をかけているのが、いうまでもなくマスメディアの発達である。

ただし、誇示の主要な舞台はいまやインターネットに移っている。とりわけSNSの爆発的な普及は誇示をめぐる風景を大きく一変させた。

ソーシャルメディアの登場は、私たちの振る舞いにどう影響しているだろうか。ここではアレクサンドラ・サミュエルの議論を見てみよう。それによると、第一に、ソーシャルメディア時代における「近接性(proximity)」の変化が指摘されている。



一般に、私たちは身近なものほど親近感を抱きやすいが、ソーシャルメディアは、従来であれば知らずに済んだ他人の生活を覗き見ることを可能にし、いまや私たちの視野に入る範囲は、事実上、無制限になった。

第二に、ソーシャルメディアは社会的障壁を無効にし、これが人々の比較を解き放つことになる。かつては自分と同じ階級、同族の範囲内に留まっていたが、会ったこともない、そしておそらく今後も会うことのない他人との絶え間ない比較が始まったのだ。

「さまざまな階級が競争と互いの比較をはじめるのは、既成の秩序が解体しつつあり、人間のあいだの差異が曖昧になるときである」(デュムシェル/デュピュイ『物の地獄』38頁)とは、まさに私たちの時代にこそ当てはまる。

そして最後に決定的なことに、かつて「持つ者」は「持たざる者」からの嫉妬を恐れ、富や成功を隠す傾向にあったが、ソーシャルメディアの時代にあって人々は自身の幸福をもはや隠そうとはしない。

それどころか、自身の幸福を過剰に繕い、実態以上に見せることすらある。「私たちは妬みを引き起こしかねないものを隠すという考え方をやめ、嫉妬されそうな経験や獲得を褒め称えるようになった」(Alexandra Samuel, “What to Do When Social Me­dia Inspires Envy”, JSTOR Daily, 2018 〈https://daily.jstor.org/what-to-do-when-social-media-inspires-envy/〉)。これにより、自慢と嫉妬の弁証法は相乗的に加速するだろう。

こうして、「万人の万人に対する誇示状態」ともいうべき事態が到来した。新年度のいっせいの着任・異動報告をはじめ、助成金や賞の獲得実績の状況、回転寿司チェーンでの人生を張った奇行まで、人々は休みなく誇示へと強制されている。何がこれほどまでに私たちを駆り立てているのか。

私的な事柄が露出される時代

こうした誇示の状況は、精神分析理論家の立木康介が「私的領域が露出されてやまない時代」と表現したものと呼応している。立木によれば、現代とは、従来であれば秘すべきであった私的な事柄が公的に露出されるような時代にほかならない。

その象徴的なエピソードとして語られるのは、イタリアの首相であったシルヴィオ・ベルルスコーニとその妻ヴェロニカである。

2009年の5月のある日曜日、メディアの紙面に「ヴェロニカの決意さよならシルヴィオ」、さらに「ヴェロニカ、シルヴィオにさよなら私は決めた、離婚を要求するわ」といった文字が躍ったのだ。これについて、立木は次のように言う。

もっともプライヴェートであるはずの決断が、もっともプライヴェートであるはずの段階で、あからさまに、無遠慮なまでに、不特定多数の耳目に押しつけられたのだ。いうなれば、ベルルスコーニ夫妻において、私的領域は秘められるべきものから露出すべきものへと変質したのである。(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房新社、2013年、11頁)

現代では、多かれ少なかれ、誰もが私的であったはずのものを公的空間に垂れ流している。これは個人の内面、いわば心についてもそうである。

立木は人々が心の闇をさらす社会を無意識が衰退した社会と捉えるが、これもまた誇示の民主化の一つの帰結と見ることができるだろう。

「真正さ」の問題とは何か

私たちがたえず誇示へと駆り立てられるのはどういうわけなのか。これについては、チャールズ・テイラーが「真正さ」の問題として捉えたものからアプローチできる。テイラーは、近代における変化として「名誉」から「尊厳」への移行があったと指摘する。

そもそも名誉とは、誰かには与えられ、誰かには与えられないことで価値を持つ財であろう(全員が受賞する賞に価値はない)。そのかぎりで、名誉の観念は不平等な階層秩序を前提としている。

だが、そうした秩序はいまや崩壊し、代わりに尊厳の観念が現れた。これは普遍主義的で平等主義的なものであり、「この尊厳の観念が、民主主義社会と両立しうる唯一のものであるということ、また旧い名誉の観念がこれにとって代わられるのが不可避であったということは明白である」(チャールズ・テイラー「承認をめぐる政治」『マルチカルチュラリズム』佐々木毅ほか訳、岩波書店、1996年、41頁)。

つまり、稀少な財としての名誉を求める競争から、誰もが等しく尊厳を享受する時代へと移行したというわけだ。

こうした平等化のプロセスのさなかで、逆説的にも切実さを増すのが「真正さ」にほかならない。ここで「真正さ」と呼ばれているものとは、たとえば以下のようなことだ。

人間として存在するうえで、私自身のものである仕方というものが存在するのである。私は自らの人生を、他人の人生の模倣によってではなく、こういう仕方で生きることを求められるのである。

(……)私自身に忠実であることは、わたし自身の独自性に忠実であることを意味する。この独自性は、私のみが明確な表現を与えることができ、発見できるものである。私がそれに明確な表現を与えるとき、私は自らを定義づけてもいるのである。私は真に私のものである潜在的能力を現実化しているのである。近代の真正さの理念、そして、通常この理念を含む自己達成や自己実現という目標の背後には、このような理解が存在するのである。(44・45頁)

したがって「真正さ」とは、自分の人生に意味を与えてくれるアイデンティティのようなものだろう。

以前であれば、私たちのアイデンティティは社会的階層に大きく規定されており、あえて問われることはなかった。しかし平等な尊厳の時代には、承認は自明なものではなくなり、自分の独自性がいっそう深刻な問題となる。こうした状況の変化が「承認をめぐる政治」の背景となっている。

さて、同じことが現代の誇示の氾濫についても言えるだろう。誇示者もまた、人々が等しく誇示するなかで、他人とは異なる真正さや独自性を求めてもがいている。しかし問題は、その欲望には決して真の満足が訪れないことである。

「誇示の民主化」は万人が多かれ少なかれ誇示的に振る舞うことを可能にしたが、まさにそのことによって誇示そのものの条件が壊れてしまった。自慢が賞賛や嫉妬を必要とするとすれば、誇示の民主化のもとでその効用は著しく下がるだろう。

まるで漂流する宇宙船から独りむなしくシグナルを送り続けるように、いまや時宜をまるで得ない、宛先不明の誇示だけが繰り返されている。これがわれらの誇示者の成れの果てなのである。

写真/shutterstock

嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する(光文社新書)

山本圭
嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する(光文社新書)
2024/2/15
946円(税込)
256ページ
ISBN: 978-4334102241
嫉妬感情にまつわる物語には事欠かない。古典から現代劇まで、あるいは子どものおとぎ話から落語まで、この感情は人間のおろかさと不合理を演出し、物語に一筋縄ではいかない深みを与えることで、登場人物にとっても思わぬ方向へと彼らを誘う。それにしても、私たちはなぜこうも嫉妬に狂うのだろう。この情念は嫉妬の相手のみならず、嫉妬者自身をも破滅させるというのに――。(「プロローグ」より)政治思想の観点から考察。

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