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戦火のウクライナに留まる邦人男性-「この国を見捨てられない」思いとは

集英社オンライン / 2022年6月22日 8時1分

2011年『日本を捨てた男たち』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞したノンフィクションライター・水谷竹秀のウクライナ最新レポート。戦争で多くの人が他国に避難する中、ウクライナに留まり続けている日本人男性がいる。その思いとは……。※『日本を捨てた男たち』(集英社)

ファストフード店は営業再開したが…

闇夜に突如としてサイレンが鳴り響く。
一度始まると数分は続き、鳴り止んでもその不気味な余韻がしばらく頭から離れない。

「街では今も空襲警報を耳にします。外出禁止令は午後11時〜午前5時まで継続中で、ところどころに軍のバリケードは見られますね」

ウクライナの首都キーウの現状についてこう説明するのは、キーウ国立工科大学にある日本ウクライナセンターの職員、中村仁さん(54歳)だ。同センターは、日本の文化や伝統を通じ、両国の相互理解を促す目的で2003年に設立された。



ロシア軍がウクライナに全面侵攻してから間もなく4か月––––。国連の6月16日発表によると、民間人の死者は4452人で、国外への避難民は約750万人に上る。両軍による戦闘はもっぱら東部のドンバス地方に集中しており、3月末にロシア軍が撤退したキーウとその近郊は、徐々に日常を取り戻しつつある。

人通りが戻りつつあるキーウの街並み

「営業している飲食店はまだ少ないですが、ケンタッキーなどのファストフード店は再開し始めました。以前に比べて平時の雰囲気は感じられます」

外出する買い物客や車の数は日を追うごとに多くなり、その光景は戦争前の活気を思い起こさせる。一方で、ロシア軍によるとみられるキーウへのミサイル攻撃は散発的に続いており、6月5日早朝には、巡航ミサイル5発が撃ち込まれた。うち1発は砲撃されたが、残りは鉄道関連施設に着弾した。中村さんは、

「現場は私が住むアパートから10キロ以上離れています。当日は夕方まで知りませんでした。私自身は特に問題なく、元気ですよ」

と語り、相変わらずの落ち着いた様子だ。

ウクライナ在住20年の思い

そもそも、ロシア軍が2月24日に全面侵攻した直後のオンライン取材では、こう語っていた。

「24日午前5時ごろにドーンという爆発音が1〜2発聞こえて目覚めました。いよいよ戦争が始まったんだなと。でも、眠かったので、また寝てしまいました。以前、東部のドンバス地方でボランティア活動をしていた際に何度も爆発音を聞いていたので、慣れているというか…」

4月下旬にミサイルが着弾したキーウの高層ビル

ウクライナ在住20年という「経験値」が、多少の攻撃でも冷静さを失わない、現在の中村さんを作り上げているのだろうか。

外務省によると、ウクライナに在留する日本人は昨年12月時点で251人だった。戦争が勃発した直後の2月末には約120人まで減り、大半が西部の都市リヴィウなどへ避難した。このため、キーウに残留し続けたのはわずか数人。そのうちの1人が、中村さんだった。日本大使館の職員からは再三、電話で避難を勧告されたが、従わなかった。その理由について中村さんはこう説明する。

「ウクライナにおける今までの生活を振り返ると、この国を見捨てられない思いがあるんです。民主化を進めてきた欧米の人々は、情勢が緊迫化してきたら一目散に避難した。それはどうかなと。僕自身はこの国に長年お世話になっていますから、逃げる時は彼らと一緒です」

その言葉通りの思いを貫いてきた。

神奈川県横浜市生まれの中村さんは、兄との2人兄弟。幼い頃から転勤族で、小学校5年生の時に父親が他界したため、母の手1つで育てられた。

34歳でウクライナの大学に入学

ウクライナにつながる萌芽は、高校3年生の時に訪れた。ラグビー部だった中村さんは、部活のメンバーとともにジムへ通い、そこでパワーリフティングという競技にのめり込む。

キーウに住む今も屋外ジムに通い地元民と交流している

高校卒業後はフィットネスクラブのトレーナーなどをやり、23歳の時にパワーリフティングの世界ジュニア(23歳以下)選手権で4位に入賞。その鍛え上げた体躯を活かし、20代半ばに1年暮らしたオーストラリアでは、ナイトクラブでセキュリティーを努めた。

いわゆる「バウンサー」(用心棒)だ。帰国後は六本木や渋谷のクラブで同じ仕事を約6年続け、関東連合やチーマーたちに目を光らせていた。2000年に開かれた、パワーリフティングのアジア選手権では2位まで上り詰めた。

転機は30代半ば。ロシアのシベリア地方イルクーツクで開かれた、パワーリフティングの日露親善試合に参加した時のこと。終了後、ロシアの選手団とキャンプやスポーツなどを通じて1週間ほど交流した。中村さんが振り返る。

「映画の影響からか、ロシア人は無表情でニコリともしない、というイメージを抱いていたのですが、その交流を通じて覆されました。スラブ人は仲良くなると、ラテンに近い明るいノリになるんです。その時は通訳を介してしか話ができませんでしたが、次会う時は彼らの言葉ができたらもっと楽しいだろうなと思いました」

日本に帰国後、都内の大学で開かれた公開講座に参加し、ロシア語の勉強に目覚める。さらに磨きをかけようと海外留学を決めた。

「最初はロシア行きを考えていました。ですが、ウクライナの方が民主的で、日本から見て隣国のロシアとは北方領土問題も抱えている。それにウクライナだったら、彼らの言語も習得できるのではないかと思いまして」

留学先はキーウ言語大学。その時すでに34歳だった。

取材・文・撮影/水谷竹秀

#2 ウクライナ在住20年-「隣国同士で憎しみ合うのは残念」

キーウ近郊に廃棄されたロシア軍の戦車

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