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タモリが初の総合司会、ジュリー、明菜、聖子……僕がNHKホールの客席から観た、1983年の紅白歌合戦

集英社オンライン / 2022年12月6日 12時1分

毎年この時期になると出場歌手のラインナップが話題になる紅白歌合戦。大晦日の風物詩といえるこの音楽番組は、かつて平均視聴率80%をとることもあるお化け番組だった。華やかなりし頃の紅白を振り返る。

大晦日に紅白を見ないなんて、
非国民か天邪鬼か!?と思われていた時代

まもなくやって来る大晦日、あなたは「NHK紅白歌合戦」を見ますか?

昨年、2021年の第72回「NHK紅白歌合戦」の平均視聴率は、前半が31.5%、後半が34.3%で、2部制になった1989年以降のワースト記録を更新してしまったらしい。
テレビ離れが進む昨今では、それでもすごい数字であるには違いないが、全盛期を知る一定の年代以上の人からすると隔世の感だろう。



何しろこの番組、正式に記録が取られるようになった1962年からの視聴率を見ると、70%台は当たり前。
1962年の第13回、1963年の第14回、そして1972年の第23回と、3度も80%台の平均視聴率(平均ですよ、平均)を叩き出した、超お化け番組だったのだ。
本当に、大晦日に紅白を見ないなんて非国民かよっぽどの天邪鬼か!?という時代が確かにあった。
僕がNHKホールの客席から生で観た1983年の第34回紅白歌合戦も、平均視聴率は74.2%もあったそうだ。

その年、中学2年生だった僕は立派な厨二病を発症していて、普段はパンクやニューウェーブのレコードばかり聴きあさり、「テレビでやるような歌謡曲なんてクソダサい」と公言して憚らない、やや痛い少年だった。
そんな僕だが、親が毎週購読する『TVガイド』に掲載されていた応募要項を見てこっそりとハガキを出し、まんまと当たったお一人様観覧券を握りしめて、大晦日の渋谷・NHKホールにいそいそと向かったのだ。
頑ななパンクボーイにアンビバレンツな気持ちを抱かせながら幻惑するほど、当時の紅白は不思議な魔力に近いパワーを持つ番組だったのである。

そんな僕が目撃した全盛期の紅白歌合戦の模様を、DVDに焼いて手元に残してあるオンエア映像と、頭に強くこびりついている記憶をもとに振り返ってみたい。

当時も現在も変わらぬ渋谷のNHKホール

総合司会に抜擢されたのは、お昼の番組で
人気が爆上がりしていたあの人だった

1983年12月31日。

午後9時になると同時に会場にはオーケストラが演奏するファンファーレが鳴り響き、怪しい風体の男が舞台袖からステージ中央に歩み出てきた。
タキシードに身を包み、ポマードでテカテカに固めた真ん中分けの頭髪とティアドロップサングラス。
この年の紅白総合司会、タモリ(当時38歳。以下に記述する人物の年齢はすべて当時のもの)である。

前年にスタートしたフジテレビ「笑っていいとも!」の司会に抜擢されて以降、“夜の匂いがする癖の強い芸人”から、“昼間のお茶の間の顔”に転じて人気が爆上がりだったタモリだが、まだまだ紅白の司会なんかやらせて大丈夫?と訝しむ人が大半だった。

僕を含む会場の観客、それにブラウン管の前の数千万の国民が、「コイツ何かをしでかすんじゃないか?」と固唾を飲んで見守る中、タモリは少し茶化すように「へへ」と笑ったあと、まじめに「第34回、NHK紅白歌合戦!」と高らかなタイトルコールをおこなった。

紅組のトップバッターである岩崎宏美(25歳)が『家路』を歌ったあと、白組のトップで登場したのは西城秀樹だった。
歌ったのは、今もいろいろな意味で語り継がれる名曲『ギャランドゥ』。
28歳の西城秀樹は声にハリがあり、ダンスはキレッキレ。
向かうところ敵なし、怖いものなしのかっこよさだった。

西城秀樹『ギャランドゥ』

赤組2番手の柏原芳恵(18歳)は、中島みゆきから提供されてヒットした『春なのに』を歌った。
会場でも気づいたが、彼女は歌いながら少し泣いていた。
初めて出場できた喜びで涙する歌手がいるほど、その頃の紅白は特別な番組だったのである。

白組は秀樹のあと、野口五郎(『19:00の街』)、郷ひろみ(『素敵にシンデレラ・コンプレックス』)と続く。
“新御三家”と呼ばれ、安定した人気を誇る3人が揃い踏みし、しかもトップから畳み掛けるように連続して登場したので、会場のボルテージが一気に上がった。

元気いっぱいの郷ひろみは、サビに入る直前のところで垂直に高くジャンプした。
あとで録画を確認すると、テレビではその音を拾っていなかったが、会場には着地したときの、床がドン!と鳴る音が響いたのをよく覚えている。

現代でもレジェンドとして語り継がれる
80年代アイドルたちが続々登場

アイドルの時代と呼ばれた80年代だから、紅白にも錚々たるメンツが並んでいた。
紅組の出場順では、柏原芳恵、河合奈保子(20歳)、早見優(17歳)、中森明菜(18歳)、そして松田聖子(21歳)。
つい飛ばしちゃったけど、当時24歳だった榊原郁恵もまだまだアイドル然としてたっけ。
(イクエちゃんといえば、ちょうどこの原稿を書いているときに、最愛のダンナ様・渡辺徹さんの訃報が流れた。ああ、ラガー刑事……。心よりご冥福をお祈りいたします。)

白組はシブがき隊(本木&布川が18歳、薬丸17歳)、近藤真彦(19歳)、田原俊彦(22歳)。
紅組と比べて少ないと思われるかもしれないが、前述の西城秀樹、野口五郎、郷ひろみは揃って28歳で、まだどちらかといえばアイドルチームだったのだ。
何しろ、ともに福岡出身の郷ひろみと松田聖子の恋仲が報じられ、実際にラブラブだった頃なのである。

そしてともに初出場で、『夏色のナンシー』を歌った早見優と、『禁区』を歌った中森明菜。
僕はその一挙手一投足を目に焼き付けようと、持ってきていた双眼鏡を痛いくらいに目に押し付けた。

生意気なパンク少年の僕だったが、顔がめちゃくちゃ好みだった(中学生なので短絡的ですみません)早見優は、小泉今日子が台頭するまで、心に秘めたるイチ推しアイドルだった。
そして東京都清瀬市出身の中森明菜は、隣接する東久留米市に住んでいた僕らにとっては無視できない存在だった。
スタ誕に出はじめてすぐの頃から、「清瀬の元不良で死ぬほど可愛いコがデビューするらしいぜ!」と噂になっていたのだ。

でもそんな中森明菜は、歌唱後に紅組司会の黒柳徹子と話している最中、足がガクガク震えていたのだ。いやあ可愛い! 初々しかったんだなあ。

中森明菜『禁句』

シブがき隊は『挑発∞(むげんだい)』を歌った。
生モックンの歌中のセリフ「もう迷わないぜ。抱いてやる!」のインパクトが強すぎて、しばらく頭の中をぐるぐると巡り続けたっけ。

そしてマッチが歌ったのは、11枚目のシングル『ためいきロ・カ・ビ・リ・ー』。
曲の雰囲気にそぐわない赤ブレザーにネクタイというプレッピーな衣装で登場したマッチだったが、本物のバイクとともに現れたロッカー風のバックダンサーが、歌が進むにつれてマッチの衣装を破いて剥ぎ取っていくという無茶な演出で、歌い終わる頃のマッチは腕がむき出しになり、下半身も短パン状態になっていた。
会場で見ていた中坊としては特に疑問に思わなかったが、今考えてみたら、なかなかあり得ない演出だ。

そういえばアイドルが歌うとき、バックに大勢のダンサーを従えるのが当時の歌番組でよく見かける光景だった。
女性の場合はスクールメイツというダンスチームが主体で、特に紅白歌合戦のような大型番組では、間奏中に大勢のスクールメイツが歌手を囲んで隠し、掃けるときには衣装が変わっているという演出がよくされていた。
1983年の紅白でも近藤真彦だけではなく、柏原芳恵や小柳ルミ子(31歳)が早着替えを披露して会場を沸かせていた。

いやあ、もう、何の話をしているんだか。

早見優『夏色のナンシー』

1983年の紅白歌合戦、生観戦した僕が
もっとも感銘を受けたアーティストはあの人

アイドル勢以外にも、この年の紅白にはすごい人たちが続々登場した。

特筆したいのは、大ヒットアニメソング『CAT'S EYE 』を歌った杏里(22歳)、サザンが提供した『そんなヒロシに騙されて』を歌った高田みづえ(23歳)。
意外なことにこの年が最初で最後の紅白出場となった『メリーアン』のALFEE(桜井28歳、坂崎と高見沢は29歳)、楽器を演奏せず、メンバー全員でミュージカル調に『東京シャッフル』を歌い踊ったサザンオールスターズ(桑田佳祐、原由子をはじめ多くのメンバーが27歳)などである。

中2生には無理からぬことだと思うが、まったく興味がなかったため、演歌勢が歌っているときはトイレに行ったり、ロビーでジュースを飲んだり、席でよそ見しながら鼻くそでもほじっていたのだろう。
ほとんど記憶にないのだが、そんな中では大衆演劇役者で“下町の玉三郎”として人気が急上昇し『夢芝居』がヒットしていた梅沢富美男(33歳)、そして大瀧詠一提供のポップス『冬のリヴィエラ』を歌って16回目の出場を果たしていた森進一(36歳)は記憶に残っている。

そして紅白合わせて全42組が出場した中で、会場で観ていた僕がもっとも興奮させられたのは、当時35歳の沢田研二だった。
会場が暗転して真っ暗闇になる中、可動式の演台に乗ってバックバンドのEXOTICSとともに、向かって右袖から現れた沢田研二。
衣装にはいくつかのまばゆいサーチライトが仕込まれていて、暗闇となった客席に演者側からライトを当てるという趣向だった。

衣装はそれを見たタモリが「歌う日露戦争」と表現した、ロングコートに制帽風の帽子を合わせた軍人スタイル。
きっと今だったら“ナチスを連想する”として批判されそうな衣装だが、これがまあ死ぬほどかっこよかったのだ。

歌は銀色夏生・作詞、大沢誉志幸・作曲の『晴れのちBLUE BOY』。

テレビ放送ではうまく調整されていたようだが、他の歌手の演奏とは違い、沢田研二のバックバンドの音が腹に響くような爆音だったことも、興奮を誘う材料だった。

艶やかなメイクを施し、サーチライトの光を投げつけながら激しく踊り歌う沢田研二はたまらなくイカしていた。

沢田研二『晴れのちBLUE BOY』

当時の沢田研二は、その衣装も楽曲も、世界の音楽界の最先端スタイルをうまく取り入れていたことで知られる。
そして中学生ながらニューウェーブ好きだった僕は、歌う沢田研二を見てすぐにピンと来た。

その衣装やサウンドは明らかに当時の僕が傾倒していた、アダム・アンド・ジ・アンツやデュランデュラン、カルチャー・クラブ、そして何より、ジャングルビートのバウ・ワウ・ワウを彷彿とさせるものだったからだ。
1983年の紅白歌合戦で沢田研二がやっていたのは、イギリスのロンドンで燃え盛っていたニューロマンティクスやゴスに通じるパフォーマンスだったのだ。
今でも思い出すだけで気持ちが熱くなるけど、おじいちゃんおばあちゃんを含む数千万人が視聴する紅白歌合戦でそれを演るって、すごい勇気だと思いません?

そういうわけで、忘られぬ39年前の紅白について、多少オーバーヒートしながら勝手きままに書き進めてみましたが、いかがだったでしょうか。

翻り、今年の紅白はどうなるんだろうか?
あの頃のような熱い気持ちにはとてもなれないだろうなとは思いつつ、この原稿を書いていたら、なんだか少し見たくなってきた。

ADAM AND THE ANTS『Prince Charming』

文/佐藤誠二朗

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