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「僕は金メダルに届かない選手」悩み傷ついた18年間 それでも日本競泳界に入江陵介は不可欠だった

THE ANSWER / 2024年4月5日 10時33分

現役時代の入江陵介【写真:Getty Images】

■高校時代から取材するスポーツライター・荻島弘一氏が回顧

 競泳五輪メダリストの入江陵介(34)が現役を引退した。16歳で日本代表入りしてから18年間、08年北京から21年の東京まで4大会連続五輪出場を果たし、3個のメダルを獲得した。競泳史上初の5大会連続出場を目指したパリ五輪選考会で代表を逃して迎えた引退。3日に都内で行われた会見は、笑いと涙に包まれた入江らしいものだった。(文=荻島 弘一)

 ◇ ◇ ◇

 初めて入江を取材したのは、08年北京五輪前だった。当時から水面を滑るように美しい泳ぎだったが、プールサイドの高校生から感じたのは「線の細さ」だった。体型だけではなく、精神的な部分での繊細さ。周囲を気遣いながら、言葉を選んで話す。ピアノが得意な芸術家肌。日本新記録を連発する「強さ」と対称的な「優しさ」「儚さ」を感じた。

 どちらかと言えば「オラオラ系」が目立つ競泳チームの中で、異質にみえた。当時、あるコーチは「泳ぎは素晴らしいけれど、精神面が心配。周囲の影響を受けやすいし、流される傾向がある」と話していた。後に金メダルを手にする鈴木大地や北島康介は五輪初出場の高校生の時から他を寄せ付けない「芯」を感じたが、入江にはそれが見えなかった。

 五輪と世界選手権で銀メダル4個。09年ローマ世界選手権200メートルは当時の世界記録を破るタイムを出しながらピアソル(米国)に敗れて2位だった。12年ロンドン五輪の同種目でも金のクラリー(米国)と0.37秒の銀。世界記録を更新するタイムで泳いでも、水着の規定違反で公認されないことまであった。結局、頂点に立つことは1度もなかった。

「僕は頑張っても金メダルには届かない選手」と思い悩んだこともある。自虐的な弱音を聞いたことも1度ではない。極度の緊張からレース後に嘔吐することも珍しくなかったという。会見でも「引退を考えたことは何度もあった」と明かした。それでも現役を続けられたのは、競技に対する真摯な思いと周囲への感謝があったからだと思う。


引退会見を行った入江陵介【写真:中戸川知世】

■最も印象に残るレースは「ロンドン五輪のメドレーリレー」

 長い競泳人生を支え続けたのは会見で「家族」とも話した「日本代表競泳チーム」への思い。最も印象に残るレースを聞かれると「ロンドン五輪のメドレーリレー」と即答した。入江、北島、松田丈志、藤井拓郎で手にした史上最高の同種目の銀メダル。「(北島)康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」という松田の名言とともに、日本競泳陣が五輪最多11個のメダルを獲得したロンドン大会のハイライトだった。

「銀メダルだけではなく、スタンドでチーム全員が立ち上がって喜んでくれたのがうれしかった」と振り返った。当時「競泳は(代表選手)27人のリレー。(最終種目の)男子メドレーリレーの最後の選手がタッチするまで大会は終わらない」という言葉で感動を表現した。翌13年バルセロナ世界選手権の銅メダルを最後に、同種目の世界メダルはない。「メドレーリレーを復活させたいという思いは強かった」と話した。

 会見では「影響を受けた選手」として2人の名をあげた。サプライズゲストとしても登場した北島氏と、同氏引退後に16年リオデジャネイロ五輪まで日本チームの主将を引き継いだ松田氏。「理想の2人。そういうふうになりたかったけれど、なれなかったのかなと思う」と言った。

 22年福岡世界選手権後、パリ五輪挑戦を表明した入江に日本競泳チームの主将としての「覚悟」を感じた。性格的には北島や松田のようにチームを引っ張るタイプではない。チームの和を大切にし「みんなで頑張ろう」というスタイル。若い選手への声掛けも常に相手を気遣って優しい。ところが、そんな入江の思いはなかなか伝わらなかった。

「時には厳しく言わなければいけないのかも」という決意をパリ五輪挑戦表明直後に聞いた。チームへの強い思いを感じながらも「それぞれタイプが違うから、無理しなくても」と返したが「嫌われ役になることも必要かもしれないですね」と強い思いは変わらなかった。

 結果的にどこまで「嫌われ役」になれたのか分からない。五輪選考会では日本新0と日本競泳陣の不振は変わらないし、入江自身もパリ五輪出場を逃した。それでも、ラストレースとなった選考会の200メートル背泳ぎ見て、入江が覚悟を持って発信してきたことは伝わっていると思った。

 入江が3位に終わったレースでパリ五輪キップを手にした19歳の竹原秀一(東洋大)は尊敬する大先輩に「おめでとう、頑張って」と言われ「泣きそうになった」と振り返った。次のレースに出た女子平泳ぎの鈴木聡美も「最後まで泳ぐ姿に胸が熱くなった」と言った。スタンドの拍手は、この日一番。引き揚げる34歳に仲間や関係者が次々と駆け寄った。


会見にサプライズ登場した北島氏(右)【写真:中戸川知世】

■「弱さ」を武器にしてたくましくなった現役生活

 レジェンドには失礼な言い方だが、入江は「弱さ」が武器だったようにも思う。言い換えれば「柔軟性」であり「優しさ」だ。「流されやすい」高校生は北島や松田に引っ張られてチームで戦う楽しさを知り、たくましくなった。「多くの人に支えられた」と現役生活を振り返ったが、常に周囲を思いやる人間的な魅力が多くの人を巻き込んだのだ。

 会見で言葉に詰まる場面では「しんみりして、すみません」と気遣いをみせた。報道陣らへの感謝を込めてお土産に紅白饅頭まで用意した。ゲストとして登場した北島氏には「本当にまじめ。僕なんか、手を抜くことばかり考えていた」と突っ込まれた。そのすべてが、入江らしかった。

 周囲の期待に押しつぶされそうになり、葛藤を繰り返し、悩み、傷ついてもきた。その苦しみは想像さえつかない。それでも、抜群の協調性は「チーム」に欠かせなかった。細かな気配りが、日本競泳陣になくてはならないものだったと思う。だからこそ、先輩にも後輩にも愛される存在であり続けたのだ。

 プールから離れ、今度は競技を「伝える」ことにも興味を示した。競技成績以上に、豊かな感受性や周囲への気遣いが武器になりそう。「辛い物は苦手」とバラエティ番組出演をオファーされて言ったが、激辛料理を前にしながらも周囲の空気を読み「無理ですよ~」と言いながら涙で口に運ぶ姿も目に浮かぶ。プールをあがってもなお「繊細」で「優しく」、気遣いを忘れない人間的な魅力がある入江陵介の活躍が楽しみだ。(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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