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家康激怒「豊臣ゆかりの寺」に刻まれた侮辱の言葉 梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」が騒動に

東洋経済オンライン / 2023年12月2日 7時50分

方広寺の梵鐘に刻まれた言葉が物議を呼ぶ(写真:鴨川さんぽ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は徳川家康と豊臣秀頼の対立が深まった、方広寺鐘銘事件の背景を解説する。

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関ヶ原の戦い後の慶長16年(1611)3月、徳川家康は豊臣秀頼と二条城で会見した。今後、徳川と豊臣との関係がどうなるのか。人々の不安が解消されたわけではないが、「無事に会見が終わったことはめでたい、これで天下泰平になった」とする声も聞かれた。

【写真】騒動に発展、豊臣家ゆかりの寺の梵鐘に刻まれた言葉とは・・・?

対立が深まった「方広寺鐘銘事件」

しかし、そうした声を打ち消すかのような事件が慶長19年(1614)7月に起こる。有名な方広寺鐘銘事件である。

方広寺とは、京都市東山区にある天台宗寺院である。豊臣秀吉によって3年がかりで造営され、天正17年(1589)に完成。僧侶・木食応其(もくじきおうご)が開山となった。

文禄4年(1595)には大仏殿も完成し、そこには金箔で彩色された木造の大仏が安置される。ところが、慶長元年(1596)、いわゆる慶長の大地震により、大仏殿は倒壊してしまった。

豊臣家ゆかりの寺院である方広寺大仏殿の再建を志したのが、秀吉の子・秀頼であった。再建途上で火災により消失するが、それでも秀頼は諦めなかった。

慶長14年(1609)から再建の準備に入り、翌年に工事開始。慶長17年(1612)に大仏が完成した。大仏殿が再建されたのは、慶長19年(1614)のことだった。

大仏殿の再建は、亡き父・秀吉の追善供養ということもあるが、豊臣家の威信をかけたプロジェクトとなっていた。

後水尾天皇から勅定(天皇の決定)を得て、同年8月3日には、大仏の開眼供養が行われることになった。

その直前の7月上旬には、大坂から秀頼の使者が駿府の家康のもとに遣わされ、秀頼からの進物(金・太刀・馬)が献上されており、この時点では、徳川と豊臣の間に、方広寺をめぐる対立は起きていない。

だが7月21日、家康は、金地院崇伝(臨済宗の僧侶)と板倉重昌を呼び、方広寺大仏殿の鐘銘は「徳川方にとって不吉な語句がある。上棟の日も吉日ではない」と激怒した。方広寺の梵鐘に刻まれた言葉が、家康の機嫌を損ねたのだ。

家康の二文字を分断する言葉が刻まれる

その言葉は「国家安康」「君臣豊楽」。「国家安康」は国の政治が安定していることを意味する。「君臣豊楽」は、君主から民衆に至るまでが豊かで楽しい生活を送るという意味で、どちらもとても縁起がよいように思う。だが、家康はそれを不吉と捉えた。

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