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家康の死後に急変「徳川秀忠」驚きの"恐怖政治" 何度も大名の領地を没収したり、領地を移す

東洋経済オンライン / 2023年12月3日 11時0分

第2代将軍の秀忠は改易や転封を連発した。写真は江戸城桜田門(写真: PhotoNetwork / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第50回は家康死後に秀忠が敷いた、恐怖政治の裏側を解説する。

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家康が秀忠に伝えたかったこと

徳川秀忠は、何度か父の徳川家康から叱責を受けている。

【写真】大坂夏の陣で勝利した秀忠は秀頼と淀殿に対するある決断を下す。写真は激戦地となった茶臼山

最もよく知られているのは、関ヶ原の戦いへの遅参だろう。真田昌幸と信繁の父子が立て籠もる上田城を攻略できずに、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

激怒した家康は3日にわたって秀忠との面会を謝絶したが、実のところ、遅れてきたこと自体を責めているわけではなかった。家康や秀忠の専属の医者だった板坂卜斎が記した日記『慶長年中卜斎記』によると、大津で家康にようやく会ってもらえたときに、秀忠はこう言われている。

「今回は合戦に勝ったからよかったが、万が一、負けていたならば、弔い合戦となる。それに備えて軍勢をそろえて上ってきたならばまだしも、道中を急いで軍勢をまばらにして上ってくるとは何事か」

遅参そのものよりも、遅れたことで慌てて軍勢をばらばらにして上ってきたことを、戦略ミスとしてとがめているのである。

家康は「大局観を持て」と秀忠に懸命に伝えていることがわかる。秀忠もそれに応えようと、家康の意向に沿いながらも、将軍となるのにふさわしい判断力を磨いていくことになる。

それを象徴する場面が「大坂夏の陣」で勝利したあとの戦後処理である。

「大坂夏の陣」で徳川の勝利が決まると、大野治長などの豊臣家の家臣たちから、豊臣秀頼の助命を乞われた家康。江戸時代初期に家康の動静を記録した『駿府記』によると、こう伝えたとされている。

「放免しよう、秀忠に聞いてみよう」

だが、秀忠は助命を拒否。非情にも秀頼と母の淀殿に切腹を命じている。この決断には、周囲も驚いたことだろう。だが、秀忠の立場になれば、当然の判断でもあった。

そもそも、この戦いは政権譲渡の仕上げとして、家康が豊臣家滅亡を目論んだものであることは、火を見るより明らかなこと。秀忠は自分に判断を委ねられた意味をきちんと理解して、秀頼に切腹を命じたのだろう。

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