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家康の死後に急変「徳川秀忠」驚きの"恐怖政治" 何度も大名の領地を没収したり、領地を移す

東洋経済オンライン / 2023年12月3日 11時0分

もちろん、家康としても息子に汚れ役を押し付けたわけではないだろう。秀忠に非情な判断を下させることで、大名たちにこれから政権を担うのは誰なのかを、明確なメッセージとして伝えている。自分が亡きあとの、秀忠と諸大名との関係に思いを馳せたのだ。

そして秀忠もまた、そんな先代のお膳立てに応えながら、自らを脅かしかねない存在の芽を完全に摘むことをやってのけた。

秀忠を駆り立てた「関ヶ原のトラウマ」

もともと秀忠はこの「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」に並々ならぬ意欲を見せていた。父の陰から一歩出ようとする秀忠の姿がそこにある。江戸城を出たとき、家康の事実上の側近である本多正純に書状でこう伝えた。

「大坂城攻めは、私が着くまでお待ちなさるように申し上げてください」

もう関ヶ原のような遅参だけは避けたい、という思いがありありと伝わってくる。秀忠は自分の長女、千姫を秀頼のもとへ嫁入りさせており、彼女も大坂城にいた。

それにもかかわらず、戦意のほうが上回ったようだ。そして真田との戦いに敗れて、大坂冬の陣ではいったん和睦に応じることになると、こう徹底抗戦を主張している(『駿府記』)。

「この程度の城郭がどうして攻め落とせないのでしょうか」

家康は「小敵を見て侮るな」と息子をたしなめながらも、胸中では秀忠にたくましさを覚えたのではないか。秀忠はそれでもおさまらずに、「大御所(家康のこと)は文武の道で天下無双の大将であるのに、ためらうのはおかしい」(『駿府記』)とまで言っている。

秀忠が家康の意をくみながらも、自分の最終判断で、秀頼親子を死に追いやったのも、やや危うさを感じるほどの熱意の延長だったのだろう。

自分だってやれる――。そんな思いは家康の死後、加速していくことになる。

大名の改易や転封が相次いだ

元和2(1616)年4月17日、家康は75年の生涯に幕を閉じる。約3カ月前の元旦に、秀忠は江戸城黒書院で、次男で11歳の家光を自分の左側に座らせた。跡継ぎを家光とするというメッセージである。

秀忠ばかりか、その次の代まで徳川家が承継する道筋を立てられて、家康としても安心して、あの世に旅立てたことだろう。

いよいよ秀忠が自由に采配を振るうことになった。家光に将軍を譲る元和9(1623)年までの7年間が「秀忠の時代」だ。そこに秀忠の本来の姿が凝縮されている。

これまでは「何事も大御所様の仰せのままに」といっていた秀忠がやったこととは、何か。目立って多かったのが、大名の改易や転封である。つまり、大名の領地を没収したり、領地をほかに移したり、ということを何度も行ったのである。

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