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「長期投資の肝!」時代のど真ん中産業の見極め方 ターゲット業界を間違えれば成果は出ない

東洋経済オンライン / 2024年1月16日 8時30分

歴史に名を残すような資本家はみな、この「ど真ん中の産業」の、それこそど真ん中に存在していました。だからこそ成功を手にできたのですね。

たとえば日本で初めて銀行を設立し、500以上の企業の設立・運営に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一氏(以下、渋沢と表記します)は、養蚕を営む農家の出身です。

1840(天保11)年生まれの渋沢は、家業であった畑作や当時のポピュラーな染料であった藍玉の製造・販売、養蚕などを手伝いながら、学問にも励みました。ここが大きなポイントです。

横浜の税関に残されている明治時代の輸出の統計データをひもとくと、面白いことがわかります。1870(明治3)年の輸出データでは、生糸や蚕の卵が付着した蚕卵紙など、蚕糸関係が70%を占めているのです。

つまり当時の生糸というのは、今でいうトヨタ自動車くらいのインパクトがある産業だったわけです。当時の生糸生産のトップランナーは、群馬県に渋沢が設立した富岡製糸場でした(渋沢は設置主要人物5人のうちの1人)。

渋沢は実家が養蚕業を営んでいたので、日本が世界と勝負できるのはこれだ!と確信を持っていたのでしょう。運も味方してくれたと思います。ヨーロッパにおける生糸市場はフランスが独占していたのですが、伝染病によって蚕が激減。そのタイミングで日本が取って代わることになったのです。

渋沢に天賦の才と並々ならぬ努力をする能力があったことは間違いないのですが、日本の資本主義の黎明期に産業のど真ん中にいられたということも、偉業を成し遂げられた大きな要因だったのではないでしょうか。

なお、富岡製糸場が群馬に作られたことは、鉄道の敷設にも影響を与えました。日本で最初に鉄道が通ったのは、1872(明治5)年。新橋と横浜を結ぶ官営鉄道でした。横浜の港に物を運ぶため、交通網の整備は必須だったからです。

養蚕地の群馬県へ向かう鉄道路線の建設は、私鉄の日本鉄道が担いました。1885(明治18)年までに開通した前橋~赤羽~品川(のちの高崎線・赤羽線・山手線)は、品川~横浜間を走る官営鉄道と合わせて、当時の主要輸出商品だった生糸や絹織物の産地と輸出港を結ぶ路線となり、日本の産業発展に大きく貢献しました。

主要産業の変遷をたどる

近代日本を支えたのは生糸に代表される繊維産業ですが、「おごる平家は久しからず」と「平家物語」にもあるように、不変ではいられませんでした。繊維革命とも呼ぶべきイノベーションが起こったのです。

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