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なぜ紫式部は光君を「闇抱える男」として描いたか 源氏物語が普遍的に問う「生きることの苦しみ」

東洋経済オンライン / 2024年2月4日 12時20分

京都・平安神宮会館での特別対談「『源氏物語』が今語りかけてくるもの」に登壇した角田光代氏(左)と山本淳子氏(写真提供:河出書房新社)

5年をかけて『源氏物語』の新訳を行った角田光代氏。そして、『源氏物語』などの平安文学研究者で京都先端科学大学教授、山本淳子氏。2023年11月に行われたこの2人による京都・平安神宮会館での特別対談「『源氏物語』が今、語りかけてくるもの」から、その一部をお届けします。

東洋経済オンラインでは1月1日より、河出文庫『源氏物語 1 』から第1帖「桐壺(きりつぼ)」全6回など、名帖を厳選してお送りしています。

対談の前編を読む:あえて「格式張らない新訳」で読む源氏物語の斬新
「桐壺」を読む:愛されれば愛されるだけ増えた「その女」の気苦労

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『源氏物語』に今も残り続ける謎

角田光代(以下、角田):私は訳しながらすごく不思議に思ったことがあります。紫式部はこんなに長い物語、こんなに複雑に入り組んだ人間関係を、紙が豊富にあるわけではない時代に、どのようにして整理して書いたのか。たとえば第22帖に出てくる玉鬘(たまかづら)が、実は第2帖で語られていたというようなことがよくあります。

山本淳子(以下、山本):『源氏物語』がどのように成立していったかということは、本当にわからないんですね。一番極端なことを申しますと、紫式部の書いた原稿はもう伝わっていません。今残っている写本の文章は、紫式部が書いたものという保証はないんです。

加えて、いつどういう順番で書いていったのかということは、彼女自身が証言していないのでわからない。でも客観的な証拠でいうと、1008年11月1日に、ある貴族が「このわたりに若紫やさぶらふ」と紫式部を呼んでいます。パーティー会場の入り口から「このあたりに若紫さんはお控えかな」と、紫式部を探しているんですね。

ですから1008年には「若紫」の巻が書かれていて、貴族にも読まれていたということは確実です。紫式部がそのパーティー会場にいたということは、藤原道長にスカウトされてお妃の彰子に侍女として仕えていたということです。紫式部が彰子に仕え始めたのが1005年12月29日ということはわかっています。ですから、1005年の年末までには『源氏物語』の習作を自宅で書いていたものと思います。

山本:では、どこまで起筆をさかのぼることができるか。

紫式部の夫が亡くなったのが1001年4月25日です。紫式部が書いている和歌からみて、彼女は夫が亡くなって絶望し、人生というものを深く考えるようになりました。ですから1001年から1005年にかけての4年間で、彼女は現実から逃避して物語という虚構のなかに逃げ込みつつ、そこで自分の人生を検証するような執筆活動を始めて、その物語が口コミで広がったんだろうというふうに私は考えています。

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