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鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史 砂利や貨物輸送、京浜の工業発展を支えた鉄路

東洋経済オンライン / 2024年2月16日 6時30分

南武鉄道の砂利採集・輸送がどのように行われていたのかを具体的に見ると、沿線の宿河原と中野島に砂利採取場があり、ここで採取した砂利を貨物列車で川崎河岸駅まで運び、船や艀(はしけ)に積み替え、さらに目的地まで運んだ。川崎河岸駅の砂利の船積み設備については、『南武線いまむかし』(原田勝正著)に次の記述がある。

「多摩川右岸につくった船溜の上に、いくつものじょうごの口が斜めに突き出ていて、その上に貨車を引き込む線路が走っている。砂利などを積んだ貨物列車が到着すると、貨車の側板を倒す。するとそのまま、このじょうごから船に荷を卸すことができる」

この矢向―川崎河岸間の貨物支線は1972年に廃止され、現在は廃線跡の大半が「さいわい緑道」という遊歩道となっており、川崎河岸駅跡は緑道公園として整備されている。

だが、残念ながら貨物線がこの場所を走った痕跡は、遊歩道の途中に立てられている「旧南武鉄道貨物線軌道跡」と刻まれた記念碑くらいしかない。

続いて、砂利採取場の跡も見にいこう。宿河原と中野島には本線から分岐し、河原の砂利採取場へと続く砂利採取線が敷設されていた。このうち中野島は、宅地開発等により廃線跡は消え去っているが、宿河原には今も廃線跡が道路として残っているので歩いてみた。

宿河原駅改札を出て跨線橋で駅北側に渡ると、いかにも鉄道廃線らしい弧を描きながら多摩川に向かって続く道路が見える。この道路は500mほどで多摩川の堤防に突き当たる。途中、砂利採取線の跡であることを示すようなものは何もない。

こうした南武鉄道沿線の砂利採取場は多摩川下流域に位置していたため、上流域での採取が進むにつれて砂利の供給が不十分となり、1930年代半ばには当局による採取制限が始まった。そのため南武鉄道は「上流の青梅電気鉄道沿線で委託採掘をおこなうようになって、事業を維持」(『神奈川の鉄道』青木栄一ほか)したというから、宿河原・中野島の砂利採取線が活躍した期間はそんなに長くはなかったのだろう。

青梅から臨海部へ「石灰石」一貫輸送

南武鉄道が輸送したのは砂利だけではなかった。セメントの原料や鉄鋼生産の副原料として使われる石灰石も重要な輸送品だった。石灰石を輸送したのは、浅野財閥の影響によるところが大きい。

浅野財閥は青梅鉄道(現・JR青梅線 1894年開業)や五日市鉄道(現・JR五日市線 1925年開業)を傘下に収め、その沿線で石灰石の採掘・輸送を行っていた。だが、川崎臨海部にある浅野セメント川崎工場や日本鋼管(浅野総一郎の娘婿・白石元治郎が社長)の工場へ石灰石を輸送するには中央線、山手線、東海道線経由で大きく迂回しなければならなかった。

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