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鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史 砂利や貨物輸送、京浜の工業発展を支えた鉄路

東洋経済オンライン / 2024年2月16日 6時30分

川寒川駅について、より詳しく調べてみよう。同駅に関する資料は少ないが、相模鉄道の当時の事業報告書にいくつか記述が見られる。開業前の段階では単に「砂利停車場」と記載されていたが、1922年6月から「川寒川」と書かれるようになり、「第七回事業報告書」(自1923年6月 至1924年5月)には「川寒川停車場」と記載されている。

「川寒川」というのは少し変わった駅名だが、「砂利の近代史-相模川砂利を中心として(下)-」(内海孝著「寒川町史研究2」掲載)によれば、「川端停車場」とする予定だったところ、同名の駅がすでに夕張線と和歌山線にあったために、川寒川という停車場名になったという。

また、河川敷の砂利採取場から川寒川停車場まで、砂利の「小運搬ノ軌道」(第四回事業報告書)が延びていたという記述も見られる。地形図の河川敷に描かれている線路がこの軌道であり、おそらく採取した砂利をトロッコのようなもので停車場まで運び、貨車に積み込んでいたのだろう。

川寒川支線は1931年11月に廃止された。廃止の理由について寒川町観光ボランティアガイドの森和彦さんは、「理由について明確に書かれた資料は今のところ見つかっていないが、1933年に日本初の広域水道となる神奈川県営水道が創設され、1936年には給水が開始された。おそらく川寒川の砂利採取場所と、取水場所が重なったのではないかと推測している」という。

砂利の枯渇が廃止の要因に?

加えて、川寒川支線の廃止については、次のような情勢も考慮すべきだろう。相模鉄道は1931年4月に厚木―橋本間を延伸開業(全通)させ、同時に厚木以北の砂利採取場の採取権の獲得も進めた。「第二十七回事業報告書」(自1934年12月 至1935年5月)には、入谷停車場(当初は砂利発送用の貨物駅)の設置と座間新戸駅(現・相武台下駅)付近に敷設した砂利採取線についての次の記述が見られる。

「現在採掘中ナル寒川村及有馬村地先相模川ノ砂利ハ余命僅少トナリシヲ以テ今回上流ノ海老名村、座間村及新磯村地先ノ採掘ヲ計画シ新ニ入谷停車場ヲ設置シ又座間新戸停車場ノ側線ヲ延長シテ来期ヨリ営業開始ノ予定ナリ」

橋本までの路線延伸にともない、砂利が枯渇しはじめていた下流域から中流域へと採取場所が移っていった様子がわかる。川寒川支線の廃止は、こうした変化の影響も受けたものと見るべきだろう。

さて、今回は鶴見線、南武線、相模線の支線跡をたどった。廃線になってから、すでに長い時間が経過し、残る資料や痕跡も少ないが、沿線の産業発展に貢献したのはもちろん、輸送した砂利や石灰石などが、東京や横浜など都市の復興・発展にも大きく寄与したことは間違いないのである。

森川 天喜:旅行・鉄道ジャーナリスト

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