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不思議なほどに愛しすぎ、その思いが人を殺める 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑤

東洋経済オンライン / 2024年3月3日 16時0分

日が高くなる頃に起き出して、光君はみずから格子(こうし)を上げた。庭はひどく荒れていて、人影もなく、遠くまで見渡せるほどだ。木立は気味の悪いほど古びていて、前庭に植えられた草木もうつくしいとはいえず、ただ荒れた秋の野である。池も水草で埋まり、不気味ですらある。別の棟に管理人一家が住んでいるようだけれど、そこはずいぶん離れている。

「薄気味が悪いところだな。でも、鬼でも私なら見逃してくれるだろうね」

光君はまだ顔を隠していたが、そのことを女が不満に思っているようなのに気づく。こんなに深い仲になってもまだ隠し続けているのも確かに不自然だと光君は思う。

いつまでも名前を教えてくれない

「夕露(ゆふつゆ)に紐(ひも)とく花は玉鉾(たまぼこ)のたよりに見えしえにこそありけれ


(夕べの露に花開くように、こうして紐をといて顔を見せるのも、通りすがりの道で会った縁ゆえですね)

露の光を近くに見て、さあ、いかがですか」

と言う光君に女はちらりと目をやり、

「光ありと見し夕顔(ゆふがほ)のうは露(つゆ)はたそかれどきのそら目なりけり
(光り輝いていると思った夕顔の花の露は、夕方の見間違いでございました)」

と細い声で言う。見間違いとはおもしろいと光君はひいき目に思う。心からくつろいでいる光君の姿は、物(もの)の怪(け)が棲(す)みつきそうな荒れ果てた場所だけに、何か不吉に感じられるほどうつくしい。

「いつまでも名前を教えてくれないのがつらいから、私もこれまで隠していた顔をこうして見せたんだ。あなたももう名前を教えてくださいな。どこのだれとも知れないのは、なんだか気味が悪いから」光君は言うが、

「海士(あま)の子なれば」と女は甘えた様子で答えない。

「白浪の寄するなぎさに世を過ぐす海士の子なれば宿も定めず(和漢朗詠集/白浪の寄せる渚(なぎさ)に暮らす、家も定まらないいやしい身分で、名乗るほどのことはありません)」を女が引いたのに対し、「海士の刈る藻に住む虫のわれからとねをこそ泣かめ世をば怨(うら)みじ(古今集/海士の刈る藻につく『われから』という虫の名のように、自分のせいだと泣こう、世を怨まずに)」から、ならば「ワレカラ(私のせい)だね」

などと恨み言を言ったり、仲睦(むつ)まじく語り合ったりして、二人は時を過ごした。

惟光(これみつ)が光君をさがしあて、果物や菓子を届けさせた。ここで顔を出すと、やっぱりこうなったのは惟光の手引きかと右近に文句を言われるに違いないと思い、光君に近づくのはやめておいた。それにしても、女を連れ出して隠れ家にこもるほどの入れあげぶりが惟光には興味深く、光君をここまで夢中にさせるとは、いったいどれほど魅力的な女なのだろうと考えずにはいられない。自分がその気になればきっと我がものにできたろうけれど、光君にお譲り申したのだから、我ながらたいした度量の持ち主であるわい、などと不埒(ふらち)なことまで考える。

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