不思議なほどに愛しすぎ、その思いが人を殺める 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑤
東洋経済オンライン / 2024年3月3日 16時0分
管理人の息子が紙燭を持ってやってきた。右近も動けそうにないので、光君は几帳(きちょう)を引き寄せて女を隠し、
「かまわないから、もっと近くに持ってこい」と言いつけた。
警備の分際で主人の部屋に上がることなどもってのほかなので、彼は遠慮して長押(なげし)に上がることもできずにいる。
「いいから持ってこい、遠慮してる場合じゃない」
光君は言い、紙燭を受け取って女を見る。と、女の枕元に、夢に見たのとそっくりの顔をした女がまぼろしのようにあらわれて、ふっと消えた。昔話でこんな話を聞いたことがあるが、光君はただひたすらに薄気味悪く、おそろしい。しかしそれよりも、女がどうなってしまうのか気が気ではない。我が身の危険を考える余裕もなく、女に寄り添い、「おい、おい」と揺すぶってみたが、女の体はどんどん冷たくなって、息はとうに絶え果てている。光君は言葉を失う。どうしたらいいか、頼りにして相談できる人もない。僧侶がいればこんな時には頼りになるけれど……。さっきは、「この私がいるんだから」などと強がってみせたものの、まだ年若い光君は、女がむなしく息絶えてしまったのを見て取り乱し、女を強く抱きしめる。
「ああ、きみ、どうか生き返っておくれ。こんなに悲しい目に遭わせないでくれないか」
光君は言うが、冷えていく女の体を抱いているのはおそろしくなってくる。右近は、こわがっていたのも忘れたように泣き惑い、その様子も尋常ではない。南殿(なでん)の鬼が、なんとかという大臣を脅かしたが、大臣に一喝されて退散したという昔話を思い出して、光君は気丈に自分を励まし、
「いくらなんでもこのまま死んでしまうはずがない。夜の声はよく響くから、静かになさい」と右近をたしなめる。けれどもあまりに突然のことで、やはり呆然(ぼうぜん)とせずにはいられない。光君は管理人の息子を呼んだ。
途方に暮れる光君
「奇っ怪な話なのだが、物の怪に取り憑かれた人が苦しんでいる。今すぐ惟光の泊まっているところに行って、急いでこちらに向かうように伝えてほしい。兄の阿闍梨(あじゃり)もちょうどそこに居合わせたならここに来るよう内密に告げよ。あの尼君の耳に入るといけないから、大ごとにはするな。こんな忍び歩きをやかましく言う人だから」と、なんとか話してはいるが、胸が詰まり、この人をこのまま死なせてしまったらどうしようとたまらなく不安な上に、周囲の不気味さはたとえようもない。夜中も過ぎたのだろうか、風が荒々しく吹きはじめている。松のあいだを吹く風は梢(こずえ)の奥深くから吹いてくるように聞こえ、鳥が異様なしわがれ声で鳴きはじめ、これが不吉だとされる梟(ふくろう)の声かと光君は思う。あれこれ考えはじめると、あたり一帯さびれて薄気味悪い上に人の気配もまったくしない、なんだってこんなつまらないところに泊まったのかと後悔せずにはいられなくなるが、今さらどうにかなるものでもない。右近は気を失ったかのように光君に寄りかかり、わなわなと震えて今にも息絶えそうである。右近までどうかなってしまうのかと、光君は夢中で右近の体をつかまえている。しっかりしているのは自分ひとりという有様で、まったく途方に暮れるばかりである。灯火はかすかにまたたいている。母屋との境に立ててある屛風(びょうぶ)の上やここかしこに黒々とした影がわだかまっているようである。物の怪がみしみしと足音を立てて背後から近づいてくるような気がする。惟光よ、早く来いと光君は念じる。好き者の惟光は居場所の定まらない男で、随身があちこちさがしまわっているが、夜が明けるまでの長さは、光君には千夜(ちよ)にも思えた。
次の話を読む:「道に外れた恋心」抱いた故に光源氏が受けた報い
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
角田 光代:小説家
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