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不思議なほどに愛しすぎ、その思いが人を殺める 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑤

東洋経済オンライン / 2024年3月3日 16時0分

すべての嘆きの種を忘れ

静まり返った夕方の空を光君は眺める。家の奥のほうを女が気味悪がっているので、廂(ひさし)と簀子(すのこ)のあいだにある簾を上げて寄り添った。夕暮れのほのかな明るさに浮かぶ互いの顔を見つめ合う。こんなことになるなんて思いもしなかったけれど、すべての嘆きの種を忘れ、だんだん心を開いて打ち解けてくる女が光君にはいとおしかった。何かをひどくこわがって、一日中ぴたりとそばに寄り添っているのも、あどけなく思えて愛らしい。格子を早々と下ろし、灯をつけさせて、

「こんなに深い仲になったのにまだ名前を教えてくれないなんて、あんまりだ」と光君は恨み言を口にする。そして思う。

今ごろ父帝(ちちみかど)はどんなに自分のことをさがし求めておいでだろう、使いの者はどのあたりをさがしているのだろう。それにしても、たまたま知り合った、身分の高いわけでもない女にこんなに惹かれるなんて、我ながら不思議なことだ。六条のあの方も、さぞや思い悩んでいることだろう。恨まれるのはつらいが、どんなに恨まれても無理はない。申し訳ないという感情は、真っ先に六条の人を光君に思い出させた。男を信じ切って無邪気に座っている目の前の女をいとしいと思うと、あの人の、あまりにも思慮深く、こちらが気詰まりになるような重苦しさをなんとかしてくれればいいのにと、つい引き比べてしまうのだった。

日が暮れてしばらくたった頃である。うとうととまどろむ光君の枕元に、うつくしい女が座っている。

「こんなにもあなたをお慕いしている私には思いもかけてくださらないのに、こんななんということのない女をここに連れこんでかわいがっていらっしゃるなんて……。あんまりです」

と言い、女は、光君のそばに寝ている女を搔(か)き起こそうとする。何かに襲われるような気がしてはっと目を覚ますと、灯も消えていた。光君はぞっとして、太刀(たち)を引き抜いて魔除(まよ)けのために枕元に置き、右近を起こす。右近もおそろしく思っていたようで、すぐに近くに来た。

「渡殿(わたどの)にいる宿直(とのい)の男を起こして、紙燭(しそく)をつけて持ってくるよう言ってくれ」と光君は言うが、

「こんなに暗いなか、とても行けません」と答える。

正気を失った女

「子どもっぽいことを言うね」と光君は笑い、手を叩(たた)く。その音がこだまになって奥から不気味に返ってくる。それを聞きつけてやってくる者は、しかしだれひとりいない。女はすっかり脅(おび)えてしまい、どうしていいかわからない様子である。汗をぐっしょりかいて、正気を失っているようにも見える。

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