1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学

東洋経済オンライン / 2024年6月19日 12時0分

もう少し言うと、これって価値相対主義にかなり近いですよね。西部(邁)先生は絶対に認めないでしょうね、この世界は。弁証法がないというか、AとBで異なる見え方をしているのであれば、議論ですり合わせてお互いの納得を得るというふうに進まずに、ただすれ違って終わってしまうから。この小説は、鼠が持ってる世界と、僕が持ってる世界と、女の子が持ってる世界は、ライプニッツの「窓のないモナド」のように互いに重ならないんですよね。それが物足りないと言えば物足りないし、これはこれで成立していると言えば成立している。

世の中への破壊願望が薄れた80年代の気分

川端:僕も、印象は意外と良かったですね。村上春樹は本作を入れても3、4作ぐらいしか読んだことなくて、『ねじまき鳥クロニクル』とか『羊をめぐる冒険』とかタイトルは一応覚えてるんですが、ストーリーを思い出してみようとすると全く思い出せない。

川端:で、おそらく、今回の『風の歌を聴け』もそうなるような気がするんです。ただ、春樹の場合、不思議なことに文体とか登場人物の持っている雰囲気みたいなものは時間が経っても思い出すことができます。そういう、スタイルだけが頭に残るってのは、やっぱり村上春樹の巧さなんでしょうね。

村上龍の『限りなく透明に近いブルー』はまだ、閉塞した世の中に対する「破壊願望」とか「脱出願望」みたいなものを描いていました。でも春樹になるとデタッチメントですから、そういうのを止めるわけですよね。別に何かを破壊したりしないし、脱出願望みたいなものはチラリとは出てきますけど、龍の作品ほど煮えたぎってはいない。破壊や脱出を止めてしまうっていうのは、もちろん方向としてはニヒリスト的ですから不健全であるとは言えるものの、村上春樹のこの止め方には清々しいものを感じるところがあって、不思議と嫌な印象はないんです。

なぜ嫌な感じがしないのかと考えてみると、たぶん、当時の若者が本当に持っていたのであろう気分を、正確に描いているように思えるからです。私は80年代には物心が付いてなかったので実際には知らないんですが、「確かにそういう気分になることはありそうだな」と思わせる迫真性がある。

表面的な会話だが不快感がない

川端:もう一つは、さっき柴山さんが「伝達」つまり「コミュニケーション」の問題だと言われて気づいたことなんですが、確かに春樹の作品の登場人物たちの会話を読んでいると、微妙に噛み合わなくてすれ違っていますよね。うまく言えないんですけど、フワフワして、地に足が着かないような人間関係です。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください