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江戸時代の「相場の神様」本間宗久に学ぶこと 「連戦連勝の相場師」を超えた哲学者だった

東洋経済オンライン / 2024年6月22日 9時30分

● 米の高下は天声自然の理にて高下するものなれば、極めて上がる下がると定め難きものなり。この道不案内の人は迂闊にこの商いすべからず。
――「米」の部分を、「株価」や「長期金利」や「為替」に置き換えてもまったく異和感がない。まさにマーケットとはそういうもの。ところが「この道不案内の人」による「迂闊な商い」が後を絶たない。

● 足らぬものは余る、余るものは足らぬと申すことあり。
――豊作の年はぜいたくに使うのでコメが足りなくなり、不作の年は大切に使うので余るということが繰り返された。相場はコメの作柄だけではなく、人の欲望にも左右されるのだ。

18世紀の江戸時代に、コメの先物取引市場が世界に先駆けて成立し、罫線などの手法も開発されていた、ということ自体が一種の奇跡であろう。そしてその時代に、現代に通じるような卓見を有する相場師がいたのは、まさに誇るべきことだと思うのである。

「いなかったことにされていた?」相場の神様

というわけで、現地の空き時間に酒田市の本間家旧本邸や本間美術館をせっせと訪れたのである。そこでまことに愕然としてしまったのだが、当地においては「相場の神様」本間宗久は、「いなかったこと」にされているのである。と、言うほどではないにしても、とにかく「本間宗久記念館」みたいなものが存在しないのである。

本間宗久は江戸時代の豪商というにとどまらず、わが国資本主義の黎明期における偉人の1人だと思うのだが、当地においてはどうもそのようには扱われていない。その理由を知るには、本間家の歴史をひも解いてみなければならない。

宗久は酒田の富豪「新潟屋」、初代・本間光本の三男として生まれる。若い頃から江戸に遊学して聞を広めるが、そこで米相場の面白さに取りつかれる。帰って父に事業としての米取引を進言するが、「商いの正道ではない」と却下されてしまう。

その父の死後、跡を継いだ二代目の光寿は病弱であった。光寿は自分の長男の光丘が成人するまでの間、弟の宗久にワンポイントリリーフを要請する。この間、光丘は家業の修業のために播州・姫路の商家へ丁稚奉公に出されていた。

店を任された宗久は、新潟屋の資金を使って米相場に手を出す。それまで延々と米相場の「エア取引」を重ねていただけに、向かうところ敵なしである。たちまち大儲けをなして、大いに新潟屋を拡大するのであるが、それは本間家が本来、目指すところではなかった。光丘が戻ってきて正式に3代目に就くと、宗久は家を追い出されてしまうのである。

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