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グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス

東洋経済オンライン / 2024年6月28日 12時30分

これが、「個別」と「一般」、あるいは「部分」と「全体」の関係です。

自然科学や数学にも国民的性格は現れる

古川:このたとえに基づいて言うと、日本主義とは「一つの都市を眺める日本人の国民的な独特な仕方」を「日本的性格」として自覚すること。他方、世界主義とは「自己の特殊な仕方の外にも他の多くの仕方のあることを知って、各々違った立場から眺めているものが同一の都市であることを認める」ということです。

そして、「同一の都市であるという同一性に世界的性格が見られる」。したがって、「日本的性格と世界的性格、日本主義と世界主義とは乖離的に対立するものではない。むしろ相関的に成立するものである」ということになるわけです。

面白いことに、九鬼は、最も客観的な自然科学や数学、今日であれば経済学や経営学を加えてもよいと思いますが、そこにも実は国民的性格が現れると言っています。

例えば、エネルギーの法則において、イギリス人のジュールは実験によって基礎を築き、ドイツ人のマイヤーは観察から一般的原理を推論し、フランス人のカルノーは特殊的なものに注目してエントロピー増大の法則を立てた。

これらはそれぞれ、経験から出発して帰納的推論を重視するイギリス人、合理的推論と一般原理を重視するドイツ人、一般法則からこぼれ落ちる例外的・特殊的なものに注目するフランス人という、それぞれの国民的性格を現している。このように、「超国民的」な科学的研究においても、実は「一種の国民的分業が行われている」と九鬼は言うんです。

古川:そうだとすると、「各国の文化の特殊性を発揮することによって世界全体の文化が進歩する」ということになります。「各国の文化に対立した世界全体の文化」などというものは、たんに抽象的な理念にすぎず、現実には存在しません。ゆえに九鬼は、「我々に日本国民として日本的性格の自覚がないならば我々の十分な存在理由もないことになる。あってもなくてもいいものになってしまう。世界的文化の創造に対して無能力者になってしまう」と警鐘を鳴らすわけです。

以上のような九鬼の認識は、ほとんどそのまま、今日のグローバリズム批判になっていると言えるでしょう。「各国の文化に対立したグローバルな世界的文化」など、現実には存在しません。ナショナリズムとグローバリズムが対立するわけではないのですね。むしろ、各国の特殊的・個別的な文化的感覚に基づいた、ナショナルな世界認識としての文化が多様に存在し、それが協働していくことによって、はじめて「グローバルな世界的文化」が、具体的な内実をもって発展していくわけです。

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