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「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である

東洋経済オンライン / 2024年7月1日 11時0分

ただ、私は九鬼が間違っているとは思っていません。個別の中に普遍性があり、抽象的なレベルでは通約可能性があるけれど、現実のレベルでは絶対にわかり合えないという諦念が必要です。神を信じる気持ちは理解できても、イスラム教徒はキリスト教徒にはなれない。この宗教対立は絶対に消えないという現実的な諦めがあります。だから不断に努力はするけれど、結局は無理だという考え方です。

古川さんの解釈は正しくて、普遍的なメタレベルで通約可能だからといって、みんながわかり合えるわけではない。ただ、絶対にわかり合えないかというと、神というレベルで抽象化すれば、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教にも共通点があり、わかり合えないけれど、お互いの存在を認め合って距離を置いて過ごすなど、幸せに共存することもできると思います。

中野:ただ、九鬼の矛盾というわけではないですが、九鬼には文化主義的な傾向がやや強いという印象はあります。個別・普遍で理解できるレベルは抽象であり、本当は理解できないこともある。それはそうですが、しかし、これは同じ文化の中にあっても個人間で起きうる話です。日本人同士でも、理解できないことがあります。この議論の行きつくところは、自分の言っていることは誰にもわかってもらえない、俺は俺でしかないんだっていう悲しい結論に至るのではないでしょうか。

佐藤:当然、そうなりますね。あらゆる理解は幻想であることに耐えねばならない。

「いき」とは「不可能な生き方」だ

古川:私は博士論文で、「いき」というのは実は「不可能な生き方」なのだと論じました。あらゆる意味で普遍性や相互理解の可能性を否定してしまったら、正気を保てなくなってしまいます。実際、ある意味で「いき」のモデルだった九鬼のお母さんは、孤独に耐えられず心を病んでしまったわけですし。だから、お互いにわかり合えないけれど、どこか底のところではつながっているというふうに考えないと生きていけないし、共存もできない。

中野:そうか! 実存主義的な個の考え方って「いき」なのですね。だとしたら、「いき」は、西洋にもあるな(笑)。普遍のレベルで「いき」はヨーロッパやアメリカ、中国やインドにもある。ただ、具体のレベルになると一致しない。最初は「いき」の本質を輸出・輸入できると考えていたけど、よく考えると具体のレベルでは理解し合えない。抽象度を上げればわかったふりはできるけど、具体では無理だと九鬼も感じたんじゃないんですか。

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