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「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である

東洋経済オンライン / 2024年7月1日 11時0分

佐藤:いえいえ、「近代欧米の個別性に宿った普遍性を、世界中が媚態を示して受け入れる」という意味です。現実世界の力関係を無視することはできない以上、「偶然の必然化」もグローバリズム的な解釈で受け止められることになるのです。

中野:そういう意味では、京都学派的な思想は、現実の世界の力関係と混ぜられてしまった感があります。思想と現実の力関係が混ざってしまうと、戦争で負けたら、その思想も全部ダメということになる。でも、本来、力の強弱と思想の正否とは関係がありません。勝ったほうが正しいわけではない。しかし、もし京都学派が「戦争で勝ったら思想も正しいという考え方自体が間違ってるんだ」という思想だったのだとしたら、大変お気の毒です(笑)。

負けるのが嫌なら哲学なんかやるな

佐藤:現実を相対化することはできても、現実を変えることはできない。それが哲学の限界かもしれません。

中野:限界というか、そもそも、哲学は、現実を批判するためにあるのです。力関係でユニバーサルかどうかが決まる、強いものがユニバーサルだという考え方はおかしいと執拗に批判し続けるのが哲学です。哲学を基礎にして世界秩序を考えるなどという考え方が間違いなのです。批判だけしていればよかったものを、「哲学は、批判だけじゃダメだ、世界を構想するんだ」などとやったのが間違いの始まりです。

佐藤:最後までやせ我慢に徹するべきだった、ということですね。

中野:そのとおりです。

古川:西田幾多郎やその直系の弟子たちの思想が、戦争に巻き込まれて、無理やり積極的なことを言おうとしたせいでおかしなことになったという面は多分にあると思います。ちなみに、その点、九鬼は現実に対して距離をとって、戦局が激化している1940年頃に、「日本詩の押韻」などの詩論をまとめることに全力を注いでいました(笑)。賛否あるでしょうけど、あえてそういう超然とした「いき」な態度に徹することも、一種の「意気地」だったのかもしれません。

中野:まともなことを言っているほうが割を食うことは結構あるんですよ。高貴なものが勝てるとは限りません。

佐藤:なるほど、哲学とは「高貴にいきがる」ことか!

中野:最初に哲学をやったソクラテスは、毒をあおって死んでるわけです。哲学者が高貴なものを求めていれば勝てるなどとは思うな、そして、負けるのが嫌なら哲学なんかやるなということですよ。西洋哲学は、ソクラテスが毒をあおったところから始まってるんです。ついでに言うと、西洋では宗教もイエスの磔から始まってる。どちらも負け戦がスタートです。西洋も結構やせ我慢なんですよ(笑)。

佐藤:ならばグローバリズムを否定し、国際主義を説くのも負け戦では(笑)。おまけに「国際主義を説いたが受け入れられずに負ける」のならまだしも、「国際主義を説いているつもりで、いつの間にかグローバリズムを正当化していた」という負け方をする危険性が高い。

中野:もちろん、負け戦ですよ。負け戦だと「諦め」ているのに、それでも正しいと訴え続ける「意地」、それこそが、九鬼の言う「いき」を実践することなのではないですか。

「令和の新教養」研究会

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