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「奨学金500万円」それでも母が大学進学させた結果 「うちは中流よりは下」と思ってた子どものその後

東洋経済オンライン / 2024年7月4日 11時30分

今となっては、貧乏が理由だったのか、成績が優秀だったのかはわかりませんが、大学の学費も免除になりました。ただ、それだけでは理系の学部は教科書1冊買うにも2万円することもザラなので、日本育英会のほかに県と市の寡婦奨学金も借りていました」

すべて貸与型だが、毎月何万円も銀行口座に振り込まれる経験はなかったため、純粋にうれしかったそうだ(寡婦奨学金だけは母親の元へ振り込まれていた)。

そのため、勉強にも精を出しながら、写真部とテニスサークルにも所属。そして、アルバイトは大学の斡旋窓口で斡旋された零細工場のねじ切りから始まり、皿洗い、遺跡の発掘、土木工事、塾講師、家庭教師とさまざまな仕事を経験した。

そして、卒業後は医療用医薬品を開発・製造・販売する会社の研究所に就職する。

「80年代の理系学生の就職というのは、卒業生や企業の人事(リクルーター)がスカウトに来るのです。そこで、僕は『研究員をやりたい』という話を、OBにしたところ『それだったら、製薬会社がいいよ。特に化粧品と比べたら使える額が1桁違う』と言われたため、教授に推薦状を出してもらって、志望することにしたんです。

ただ、教授には嫌がられましたね。というのも、僕を大学院に進学させたかったからです。ただ、経済的にそれは難しかったので、就職することにしました」

就職から半年後。4年間で借りた500万円近くの奨学金を20年かけて返済する生活が始まる。

「県の奨学金の返済は社会人になって1年後に始まりました。市の寡婦奨学金は母が返済していたため、具体的な額はわかりませんが、毎月2つの奨学金を1万2000円返していました。そんなに、額は大きくないですが、ある年にお歳暮の時期に社販で購入したところ、それが給料からの天引きだったため、手取りが2万4000円とかになってしまったことがありました。

当時は会社の寮に住んでいたため、平日は食事に困ることはありませんでしたが、休日は寮で食事が出ないので、外食せざるをえなく、しかも現金がないのでクレジットカードで支払いが可能なファミリーレストランに行くことしかできませんでした」

まるで、イマドキの若者のような生活だが、赤井さんが社会人としてバリバリ働いていた当時は、今ほどクレカが使える店も少なかったため、苦労しただろう(おまけに、研究所があるのは田舎だ)。

それでも、社会人と返済生活を続けた赤井さん。その間に結婚もして、子どもも2人生まれたが、12年目に別の製薬会社に転職する。

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