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多摩モノレール延伸区間「幻の鉄道計画」の顛末 政界巻き込む事件に発展「武州鉄道」の壮大構想

東洋経済オンライン / 2024年7月5日 7時0分

では、このような壮大な路線を計画したのは、一体どのような人物だったのかといえば、意外なことに、それまで鉄道とはまったく関わりのなかった吉祥寺のスクラップ事業者の滝嶋総一郎という人物だった。

鉄道と無縁の事業家が政界工作に奔走

滝嶋は戦時中、立川の陸軍技術研究所の兵器係曹長だったが、戦後、米軍との関係を築き、旧陸軍の兵器・器材の払い下げを受け、スクラップとして売却する事業を開始。朝鮮戦争勃発により、スクラップの値段が高騰し、財を成すと、昭和30年代に入る頃には不動産貸付業などにも進出。「吉祥寺名店会館」というビルを建てるまでになった。武州鉄道の構想が思い浮かんだのは、この頃だったという。

だが、いくら事業が成功したとはいえ、鉄道の建設にかかる莫大な費用を一事業家の資本だけで賄えるものではない。しかし、滝嶋は人を懐柔するのに長けていたらしく、当時、埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行の前身の1つ)頭取だった平沼弥太郎にたくみに取り入った。平沼は名栗村(現・飯能市の一部)村長、埼玉県議、参議院議員等を歴任した地元の名士であり、飯能銀行の重役に名を連ねていたときに、県内の他銀との合併により埼玉銀行が成立すると頭取に就任していた。

平沼は信仰心が厚く、当時、私財を投じて郷里の名栗村に「鳥居観音」と呼ばれる、山全体を境内とする壮大な寺院を建立している最中だった。そこへ滝嶋が現われ、50万円をポンと寄進し、「どんな立派な観音様を祭っても、お参りする人がいなければ『仏造って魂入れず』ではないですか。鉄道を敷きましょう」と話を持ちかけ、これに心を動かされた平沼は出資を約束した。もちろん、鉄道の敷設が郷里の発展につながるとも考えたのだろう。

いずれにせよ、埼玉銀行という資金的な裏付けができたことで、武州鉄道計画は実現性を帯びたのである。

ところが、鉄道事業にはずぶの素人だった滝嶋は、用地買収などの実務面は他人任せで、自らは鉄道免許取得のための政財界工作に奔走。埼玉銀行から融資された鉄道建設資金のうち数億円に上る金銭を政財界工作に流用するなど、その会社運営は極めてずさんだった。

このような武州鉄道の実態は、間もなく明るみに出ることとなる。1957年に秩父線(吾野―西武秩父間)の敷設免許を申請し、一部区間が競願関係にあった西武鉄道は、「山間部の多い計画路線を、50億円ほどの金で実現できるはずがない」(『戦後政治裁判史録3』田中二郎ほか)と、武州鉄道計画に対して反対姿勢を見せたほか、運輸省(当時)内にも、武州鉄道の免許に反対する声が強まっていった。

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