1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. 経済

多摩モノレール延伸区間「幻の鉄道計画」の顛末 政界巻き込む事件に発展「武州鉄道」の壮大構想

東洋経済オンライン / 2024年7月5日 7時0分

この時点で、埼玉銀行は武州鉄道関連事業に対して、すでに相当な金額を融資していたが、こうした批判の声に加え、同時期に大蔵省銀行局(当時)が埼玉銀行に対して行った検査で「武鉄は免許見通しなく、滝嶋関係融資分は多分に思惑的な点がある」との指摘を受けた。これに衝撃を受けた平沼は、取り巻きからの警告もあり、武州鉄道事業と絶縁する方向に舵を切ることにした。

免許交付の翌日に運輸大臣ら逮捕

だが、時すでに遅しであり、平沼が武州鉄道の発起人を正式に辞任し、事業からの「撤退」を完了したのは1960年4月。それまでの間に、滝嶋の政界工作は後戻りできないところまで進んでいた。財界有力者を介して、当時の岸内閣の運輸大臣・楢橋渡(ならはしわたる)に接近し、武州鉄道建設予定地の視察に連れ出すことに成功。その後、築地の料亭で複数回にわたり接待している。

そして、西武鉄道の「武鉄反対」運動が活発化すると、滝嶋の行動はさらにエスカレートする。1959年11月から翌年5月までの間に「政治献金」の名の下、5回にわたって総計2450万円の現金を楢橋に渡したのである。

だが、平沼という資金源を失った武州鉄道計画が空中分解するのは、もはや時間の問題であった。

この事件が興味深いのは、実はこの先だ。ここで話が終われば、滝嶋という一事業家の夢が破れたというだけで、世間を騒がせるような事態にはならなかっただろう。

ところが、奇妙なことに1961年7月11日、武州鉄道元発起人総代の滝嶋(当時、すでに同地位を辞任)に対して、敷設免許が正式に下りたのである。通常、鉄道免許の交付までには4年程度かかるとされていたが、申請から2年半というスピード交付だった。滝嶋の政界工作が功を奏したと見るべきであろう。

この免許交付は、その後の東京地検による武州鉄道関係者の一斉摘発に向けて上げられた狼煙であった。免許が下りた翌7月12日、土地買収に当たっていた武鉄関連不動産会社「白雲観光」の役員が摘発されたのを皮切りに、滝嶋、平沼、楢橋ら関係者18人が逮捕されたのである。

その後の裁判では、滝嶋に対する融資金の回収を巡る特別背任なども争われたが、本丸は「武州鉄道免許にからむ贈収賄」であった。政治とカネの問題である。

大臣へ渡ったのは「献金」か「賄賂」か

争点は、滝嶋から楢橋へ渡された金銭が、「政治献金」だったのか「賄賂」だったのかである。言い換えると、金銭を受け取った時期において、楢橋に武州鉄道免許交付に関する職務権限があったのかが争われた(収賄罪は公務員がその職務に関し、金品を収受することなどを禁じている)。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください