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「道長も態度一変」運に見放された"伊周の悲劇" 太宰府に左遷された後に巻き返したものの…

東洋経済オンライン / 2024年7月21日 10時30分

だが、伊周はしぶとかった。ここからまさかの巻き返しをはかることになる。

道長が「伊周を内大臣に」の真意とは?

いったい、太宰府に左遷されたはずの伊周が、いかにして宮中に戻ってきたのか。

それは長徳3(997)年3月25日のことだ。母の詮子が病に伏せて回復しないことから、一条天皇が大赦の詔を下すこととなる。

「常の恩赦では赦免しない者も、ことごとく赦免する」

大赦とは、国家に吉凶があったときに、罪を許すこと。とはいえ、大罪を犯した者については、この限りではない。であれば、花山法皇に矢を放った藤原伊周と弟の隆家については、大赦を適用するかどうかの検討が必要となる。

『小右記』によると、公卿たちが話し合った結果、「罪は恩詔を霑(うるお)すべし」と、罪は軽減するべきだという点ではみな一致したが、都に召喚するかどうかは、意見が分かれたようだ。

道長はというと、自分の意見を明確にすることなかった。一条天皇の結論は初めから決まっていると、踏んでいたのだろう。結局は、一条天皇が伊周と隆家の赦免と召喚を決定している。

というのも、一条天皇は出家した定子を変わらず寵愛し、第1子となる脩子が生まれたばかりだった。定子の兄・伊周を復帰させることで、定子が宮中で過ごしやすい環境を作ろうしたのだろう。一条天皇の「大赦の詔」から2カ月足らずの5月21日に隆家が、さらに半年後の12月には伊周が入京を果たしている。

その後、定子は一条天皇の第2子にして第1皇子となる敦康を出産。中関白家がかつての勢いを取り戻そうとするなか、道長は一条天皇のもとに、11歳の娘・彰子を入内させて中宮とするなど、定子に対抗している。

だが、彰子が将来的に一条天皇の子を産むかどうかはわからないなかで、定子は第3子を懐妊。先行きが見えないストレスからだろうか。道長は重病に伏すが、驚くべきことを口にしている。

「前師を本官・本位に復されるように。そうしたら、私の病も治るでしょう」

前師とは伊周のことだ。道長は「伊周を内大臣に復帰させれば、私の病も治る」というのだ。

道長と伊周も新しい関係へと発展するが…

もちろん、一条天皇の本音を探る道長の駆け引きである。それを知っている天皇も、これには応じていない。それでも、伊周がどん底から這い上がり、かつての勢いを取り戻そうとしていたことがよく伝わってくる。

定子が第3子を出産後、まもなくして崩御すると、母を亡くした敦康の養母を彰子が務めて、さらに道長と彰子が後見人になっている。

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