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「道長も態度一変」運に見放された"伊周の悲劇" 太宰府に左遷された後に巻き返したものの…

東洋経済オンライン / 2024年7月21日 10時30分

というのも、一条天皇の次に天皇になるのは、道長の甥で皇太子である居貞親王というのが既定路線であり、居貞親王のもとには、第1皇子となる敦明親王が生まれている。

道長からすれば、居貞親王から息子の敦明親王へと皇位が引き継がれれば、今後、一族が影響力を持つことは難しくなる。現時点で娘の彰子に懐妊のきざしがなく、第1皇子が敦康親王である以上、道長としてはバックアップするほかなかった。

敦康の重要性が増せば、おのずと伯父である伊周の地位も引き上げられていく。長保5(1003)年に従二位に叙せられると、その2年後の寛弘2(1005)年には座次を大臣の下、大納言の上と定められた。

「帥来り」

藤原道長が残した『御堂関白記』には寛弘元(1004)年から、そんな記述が見られるようになる。「帥」とは、藤原伊周のこと。当時、頭痛を患っていた道長を見舞おうとしたようだ。

一度、どん底を知っているだけに、伊周も慎重に地歩を固めようとしたのだろう。道長もまた伊周の詩に唱和するなど、静かな交流が生まれていくこととなった。

しかし、そんな道長と伊周との間に生まれた「新しい関係」も早々に崩壊する。道長の娘・彰子がついに懐妊したのだ。

寛弘5(1008)年9月9日、彰子は産気づくが、なかなか生まれない。しばらく状況は変わらなかったようだ。実資は藤原懐平から伝え聞いたこととして、「小右記」に「已に御産の気無し。但し邪気、出で来たる」と書いている。生まれる気配はなく、邪気が出てきた……というのだから、ただ事ではない。

さらに懐平からは「昨日、右府・内府、参入せらるるに、左相府、謁談す。而るに帥、 参入するに、謁せられず」と聞かされたという。つまり、道長はこんな行動をとったというのだ。

「右大臣の藤原顕光と内大臣の藤原公季が参られたときには、道長は会って話もしたが、藤原伊周が参ったときには、会おうとしなかった」

道長のあからさまな態度に懐平は「事の故有るか」、つまり、「何か理由があるのだろうか」と疑問に思ったようだが、その答えは明確であり、実資にはわかっていたことだろう。

当時、難産は物の怪のしわざとされていた。彰子の出産を阻む者といえば、どうしても亡き定子のことが思い出される。みなが「難産は定子の仕業だ」と噂するなかで、定子の兄である伊周も遠ざけられたようだ。

そんな物々しい雰囲気のなか、彰子は11日、30時間以上の難産の末、無事に敦成を産んだ。道長の喜びは、どれほどのものだっただろうか。

またもや運命に見放された伊周

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