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中央道・高井戸IC近く「ナゾのトンネル」何のため 歴史を紐解き見えてきた「団地との深い関係」

東洋経済オンライン / 2024年7月22日 9時20分

つまり、烏山北住宅としては騒音・排出ガスの問題は免れるが、周辺地域に押しつけになってしまうということになり、烏山道対協としては地下化案を断念することとなった。

その後、周辺住民から補助219号線の建設を早期に再開してほしいという要望があがり、東京都が暫定的に団地西側を通る松葉通りから西側の暫定開業を模索したことで、一旦議論の中心はそちらに移った。

その間に日本道路公団が検討を進め、1973年3月に提出したのが烏山北住宅を通過する区間にシェルターを設けるという案だった。

シェルター建設を決めた「中央道建設促進」の声

シェルター案は、いくつかの課題がありながらも最終的には承諾されることとなる。その大きな理由となったのは中央自動車道建設促進を求める声が高まりを見せていたことだった。

特に強い声が上がったのは、暫定的に東京側の入り口となっていた調布インターチェンジがある調布市からである。調布インターチェンジ周辺では交通量が増大しており、渋滞やそれに伴う騒音、排出ガスの被害に悩まされていた。

そこで調布市議会は1973年6月に調布インターチェンジの閉鎖要望を決議、8月には議員らが実力行使で調布インターチェンジを閉鎖した。当時の建設大臣である金丸信氏はこうした動きを受け、10月に強制的に着工する方針を示した。

そのため、9月中旬には、日本道路公団から烏山道対協に対し、時限付きでシェルター案への回答を要求。さらに日本道路公団は騒音の共同実測などを経て、議論を尽くしたので強制着工も辞さない、と態度を硬化していった。結果、最終的には12月16日に基本協定が調印され、烏山シェルターの建設が決定した。

基本協定調印の翌日からは、中央自動車道の工事が再開。1970年7月から足かけ3年半にもなった工事中止が終了した。

団地の移転先をめぐって反対運動

このように、道路については1973年末に解決を見たが、今度は団地の側で問題が起きる。シェルター建設に伴って日照が著しく遮られる28戸の移転先を巡り、反対運動が起きたのだ。

当初、移転先の住棟建設地候補として団地内にある保育園の西隣にある公園の敷地が適当とされ、代替の公園も整備されることとなっていた。しかし、保育園の父母会から反対の声が上がり、工事の審査請求や実力行使で工事をストップさせた。

これについては烏山道対協から住棟建設を急ぐよう四者協議会で要望があり、同じ団地内でも意見が割れる結果になった。

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