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「いつかはわかり合えると思った」亡き妻への後悔 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・葵⑥

東洋経済オンライン / 2024年7月28日 17時0分

あの御息所は、斎宮の姫君が宮中で潔斎(けっさい)の場にあてられた左衛門府(さえもんのつかさ)に入ってしまったので、さらに厳重な潔斎であるのを理由に互いに手紙も送っていない。つらいものだと身に染みた世の中も、今は一切合切が厭わしくなってしまい、絆(ほだし)となる子さえ生まれていなかったら、念願の出家の生活に入ってしまうのにと光君は思うのだった。けれどそう思うやいなや、西の対(たい)の紫(むらさき)の姫君の、さみしく暮らす様子が思い浮かぶ。

夜は、宿直(とのい)の女房たちがそばに控えてはいるけれど、御帳の中の独り寝がさみしくて、「時も時、このさみしい秋に逝ってしまうとは」と亡き人恋しさに幾度も目覚めてしまう。声のいい僧ばかりを選んでそばに仕えさせ、彼らが念仏を唱えている明け方など、たまらない悲しみに襲われる。

晩秋の、哀愁を帯びた風の音が身に染みると思いつつ、慣れない独り寝で眠れず、夜を明かしてしまった時のことである。夜がほのぼのと明ける頃、霧の立ちこめる庭の、花の咲きはじめた菊の枝に、濃い青鈍(あおにび)の紙に書かれた手紙を結びつけたのを、だれか使いの者がそっと置いて立ち去った。ずいぶん気の利いたことをするものだと光君が手紙を見ると、御息所の筆跡である。

「お悲しみの最中と思い、手紙を差し上げなかった私の気持ちはおわかりいただけますでしょうか。

人の世をあはれときくも露けきにおくるる袖を思ひこそやれ
(人の死を聞き、この世の無常を思うと涙がとまりません。ましてや後にお残りになったあなたの袖は、涙でどれほど濡れていることでしょう)

今朝の空の色があまりに胸に染みて、つい書かずにはおられませんでした」

とある。いつもよりもみごとに書いてあるものだと、さすがに放り置く気にはならずに眺めているが、それにしても、何食わぬ素振りでの弔問かと疎ましい気持ちになる。だからといって、このままぱったり手紙を書かないのも気の毒だし、御息所の名前を汚すことにもなるだろうと光君は思案に暮れる。亡くなった葵の上はそういう運命だったのだろうけれど、ではなぜ、あんな生霊を、この目でしかと見この耳ではっきり聞いてしまったのかとくやしく思うのは、自分の心ながらやはり御息所への気持ちが戻りそうにないからである。斎宮の潔斎は厳重で手紙を送るのは憚(はばか)られるし、などと、光君は長いあいだためらっていたが、やはり返事をしないのは思いやりに欠けると考え、鈍色(にびいろ)がかった紫の紙に、

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