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「三公七民に地税なし」羨ましすぎる江戸の税事情 農民は「隠し田」による脱税も黙認されていた

東洋経済オンライン / 2024年8月6日 16時0分

検地(土地調査)をすれば、隠し田が見つかってしまいます。また、農地を正確に把握されることは、課税が厳しくなるということにもなります。だから、検地というのは、昔から非常に難しいものだったのです。

この検地は、豊臣秀吉の時代に本格的なものが行われましたが、それ以降は、全国的な検地は行われていなかったのです。

たとえば、天保13(1842)年に近江地方で幕府が幕領の検地を行おうとしましたが、農民の反対に遭い、中止されてしまいました。農民が検地をさせないということは、現在で言えば税務調査をさせないようなものであり、「自分たちは年貢を誤魔化していますよ」と言っているようなものです。

領主側もわかっていながら、農民の反発が怖くて検地を強行することはできなかったのです。江戸時代の農民は、それほど領主から恐れられていたのです。

明治時代になって地租改正のために全国の農地を計測しましたが、江戸時代の記録では日本全国の収穫量は3222万石となっていたのが、実は4684万石もあったことがわかりました。実際の石高は、名目の1.5倍もあったわけです。つまり、隠し田が相当あったと思われます。

町民は、農民よりもさらに生活が楽だったと見られます。特に江戸の町民は非常に恵まれていました。

まず、江戸の町民には税金らしい税金は課せられていませんでした。中世以降、町民は「地税」という税を納めるのが普通でした。これは土地税のようなもので、江戸時代においても、江戸以外の地域では普通に徴収されていました。しかし、江戸の町民だけは地税を払っていなかったのです。

江戸の町民たちが幕府を大好きだった理由

なぜ江戸の町人だけが税金を免れていたのかというと、天保13(1842)年に勘定奉行の岡本成は、次のように述べています。

「町民が地税を納めるのは当然のことながら、江戸の場合は、徳川家が江戸に入ったときに、寛大さを示すために地税を取らなかった。そのため、江戸の町民は地税を納めなくていいものと思い込み、これまで地税を徴収できなかった」

なんともお人好しというか、呑気な話ではあります。おそらく、家康が秀吉による国替えで江戸に入ったとき、江戸に人を呼び寄せるために、最初は地税を取らなかったのでしょう。それがそのまま、町民の「既得権益」となってしまったのです。この発言があった天保13(1842)年というと、江戸時代の最後期です。つまりは、江戸時代を通じて、江戸の町人たちは地税を払わずに済んだのです。

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