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埼京線板橋駅、「軍需の街」玄関口からの大変貌 2025年で140周年、実現しなかった鉄道計画も

東洋経済オンライン / 2024年8月17日 7時30分

都電延伸で一気に工業化加速

さらに板橋駅周辺が大きな転機を迎えるのは、1923年の関東大震災だった。震災によって都心部および東側の下町エリアは壊滅状態に陥ったが、東京西郊の被害は軽微で、安全な住居を求めた人々は東京西郊へと転居した。その多くは現在の世田谷区や杉並区にあたるエリアに邸宅を構えた。

板橋区の広大な土地は工場地に適していたこともあり、政府は東京を再建させる意図も含めて東京府北豊島郡志村全域(現在の板橋区志村・小豆沢・蓮沼町・前野町・中台・西台)を1925年に工業地域内特別地区の「甲種特別地区」に指定する。甲種特別地区とは火薬や石油といった可燃性の強い物質を製造・取り扱う工場が設置できるエリアのことで、この指定によって板橋駅界隈は工業化が進むと期待された。

しかし、政府の思惑とは異なり板橋駅周辺には依然として農地が広がり、指定を受けたエリアへの工場進出は少なかった。工業化が進まなかった理由は、板橋の鉄道整備が遅れており、区内の工場へ通勤ができないことだった。

ここまでの経緯を振り返ると、まさに板橋は「卵(工業化)が先か、鶏(鉄道)が先か」という言葉がよぎる。

近代工業化へのターニングポイントとなったのが、東京市電(現・東京都電)の延伸だった。1929年、巣鴨車庫から板橋駅の最寄り停留場となる下板橋(1944年に廃止)までの区間が開業したのを契機に、板橋駅周辺の工業化が一気に進んでいくことになる。

それを見越して、北海道の小樽を拠点とする板谷商船は「帝都北部の大文化住宅地」を謳い文句にした「上御代の台住宅地」の建設を開始した。

同住宅地は約5万坪におよぶ広大な敷地だったが、なぜ海運事業を主業務とし、しかも拠点を小樽に置いていた板谷商船が板橋に住宅地を建設したのかという理由は明確になっていない。不明な点が多いものの、板谷商船は内務省から住宅建設および隣地に公園を開設することを条件に同地を無償譲渡された。そして、1937年に約1600坪の公園と住宅地を完成させている。板谷商船が整備した住宅街の面影は歳月の経過とともに消失したが、現在も公園は近隣住民の憩いの場になっている。

軍需が支えた工業化

住宅地としての整備が進み、1932年に北豊島郡の9町村は東京市に編入された。ここから板橋駅周辺の都市化が一気に進展していく。地主たちは都市化を希求し、土地区画整理組合が次々と設立された。

この影響を受け、区内で操業していた工場数も一気に増加。東京市に組み込まれた翌1933年には186しかなかった工場が、1935年には274まで増加し、1940年には1980にまで膨れ上がっている。当時の板橋区は現在の練馬区域を含んでいるので単純比較は難しいが、これらの数字から板橋区内の工業化が一気に進展したことがうかがえる。

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