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静岡が「缶詰王国」に上りつめた明治期からの軌跡 有名企業が本社を置く知られざる缶詰の一大産地

東洋経済オンライン / 2024年8月25日 8時0分

(筆者撮影)

静岡県は「缶詰王国」と呼ばれる。

【写真を見る】清水港の近くにある“船と港の博物館”をコンセプトとした「フェルケール博物館」

静岡と聞くと、サッカー、お茶、わさび……そうしたイメージを思い浮かべる人は多いと思うが、実は缶詰産業が盛んな地域であることは、あまり知られていない。特に、駿河国と呼ばれた静岡市を中心とした静岡県中部はそのメッカであり、清水食品株式会社、はごろもフーズ、伊藤食品といった有名企業も静岡市に本社を置くほどだ。

「弊社は業務用なども含めると、700~800種類の製品のラインナップがあります」

そう、はごろもフーズが話すように、各社が多種多様な缶詰を製造し競い合う。静岡県中部は、百花繚乱ならぬ“百缶繚乱”の様相を呈しているのだ。

それにしても、なぜこの地域が缶詰製造の一大産地になったのか? その歴史は深い。

清水港が重要な輸出拠点に

静岡市清水区港町――。清水港のほど近くに、“船と港の博物館”をコンセプトとした「フェルケール博物館」はある。フェルケールとは、ドイツ語で交通の意。「缶詰の背景に、清水港は欠かすことのできない存在」と語るのは、同博物館の学芸部長・椿原靖弘さんだ。

「ご存じの通り、静岡市はお茶の一大生産地でもあります。清水港は、アメリカに向けてお茶を輸出する港として栄えていた時代がありました」(椿原さん)

開国後、お茶は生糸と並ぶ重要な輸出品目となった。明治15年(1882年)には、日本茶生産量の82%が輸出向けで、主な輸出先はアメリカだったという。

明治22年に東海道線が開通すると、お茶の輸送は海運から鉄道へと移行。この変化を機に、清水港から直接お茶を輸出する運動が活発化していく。

明治32年、清水港は開港場に指定され、近代港湾として生まれ変わり、明治41年には神戸港を、明治42年には横浜港を抜き、清水港は日本一のお茶を輸出する港となる。大正6年には、全国茶輸出高の77%を占めていたというから驚きだろう。

当初はお茶を輸出していたが…

このとき、日本茶を輸出する際の茶箱に貼られるラベル「蘭字」という独特な文化があった。さかのぼること江戸時代、日本の大きな輸出先がオランダだった。そのため、ラベルにアルファベットが書かれているものを蘭字と呼ぶようになったそうだ。

「現在の静岡市域にも浮世絵職人たちがいました。また、清水港から直輸出が始まると横浜の職人も静岡に移ってきました。明治時代になると浮世絵文化は下火になっていきます。そのため、彼らの暮らしを支える意味でも、蘭字の存在は大きかった。お茶の輸出が、さまざまな人々を下支えしていたんですね」(椿原さん)

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