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今なお残る「富士重工製の鉄道車両」一族の系譜 2003年生産終了、独創的技術生かした気動車も

東洋経済オンライン / 2024年9月5日 7時30分

ちなみに南工場と南第二工場は、航空機の製造や整備が本業で、元は中島飛行機の所有だった陸上自衛隊の駐屯地に隣接しており、東北本線雀宮―宇都宮間のやや西に位置している。

宇都宮車両として独立

同じ頃、群馬県大泉町にあった小泉工場の技術者たちは、航空機の機体技術を生かしたバス車体の開発に取り掛かっていた。こちらは同じ群馬県内の伊勢崎工場で、国産初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」として生産を始めた。

その後、富士産業はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から、4大財閥に準ずる組織であるとして解体命令を受け、1950年に12の会社に分割された。宇都宮工場は宇都宮車両として独立した。

しかしながら2年後、サンフランシスコ講和条約が発効されたことで、日本の主権回復が認められるとともに、航空機の研究や製造が解禁になった。

これを受けて、富士産業から分割した12社のうち、宇都宮車両を含めた5社が出資し、1953年に航空機製造を目的として富士重工業が誕生。2年後に出資した5社を富士重工業が吸収する形で、現在のスバルに続く組織ができあがった。

「スバル360」の誕生

乗用車の研究開発はそれ以前から、伊勢崎工場で始まっていたが、同じ1955年に当時の通商産業省が出した「国民車育成要綱案」に対応する形で、目標を軽自動車に定めることになった。

伊勢崎のバスづくりで培ったモノコックボディと、東京都の三鷹工場で作っていたスクーター用エンジンの技術を合わせる形で、1958年に同社初の乗用車「スバル360」を発表。これが大ヒットしたことで、富士重工業は自動車への比重を高めていく。

富士重工業が会社としての体制を確立した1955年には、鉄道事業にも大きな動きがあった。戦災復旧の実績が認められ、当時の国鉄から気動車メーカーとしての指定を受けたのである。

国産初の量産型液体式気動車キハ17系、日本初の気動車特急「はつかり」とともにデビューしたキハ80系、急行型として全国各地を走り回ったキハ58系、現在も活躍を続けるキハ40系など、国鉄時代に生まれた液体式気動車の多くを手掛けた。

貨物コンテナや電車も製造

それ以外の製造も担当しており、「この間、1969年12月には国鉄技術陣との共同開発による新系列客車(12系)の製作指示を受け、新たに客車メーカーの仲間入りもしている」と富士重工業50年史にあるように、ブルートレイン用24系25形などを担当した。

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