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江戸時代の「人気職業」はいくら稼いでいたのか 「千両役者」は寛政の改革を機に姿を消した

東洋経済オンライン / 2024年9月8日 19時0分

「一日に千両の金が動く」と謳われたのが、日本橋の魚河岸、吉原、そして芝居町である。町奉行所の許可を得た中村座、市村座、森田座のいわゆる江戸三座は江戸歌舞伎の中心で、老若男女で賑わっていた。役者にもピンからキリまであり、給金にもかなりの差があった。

人気のある立役者のことを「千両役者」というが、安永7(1718)年、実際に中村仲蔵が森田座から1000両(約3億円)を受け取ったという。しかし、松平定信を登用した寛政の改革(1787-1793年)によって役者の1年間の給金が定められ、規制が実施された。

その結果、最高額は尾上菊五郎の500両(約1億5000万円)となる。次が坂東彦三郎450両(約1億3500万円)、尾上多見蔵400両(約1億2000万円)などと細かく取り決めが行われることとなり、「千両役者」は見られなくなった。

相撲は歌舞伎、吉原とともに人気を博した。もともと鎌倉、室町時代まで武術としての格闘技「武家相撲」だったが、江戸時代には勧進相撲として盛んになった。寺社建立や仏像修理などの費用集めのため、深川八幡宮で興行したのが、寺社奉行の許可を得た最初の相撲だったという。

しかし、次第に営利目的となり、有名力士が登場しても相撲を取らなかったり、体を見せるだけの力士が登場したりと、ショーや見世物的なものとなっていった。

力士は大名のお抱え者が多く、藩から禄をもらっていた。天明から寛政年間には大名の参勤交代とともに江戸に人気力士が集結し、江戸相撲は大人気となった。松江藩の雷電為右衛門、仙台藩の谷風梶之助、久留米藩の小野川喜三郎などが人気力士だった。晴天8日の興行で50両(約1500万円)から80両(約1800万円)も稼いだという。

文字どおり「ピンキリ」だった遊女の揚代

吉原は江戸唯一の幕府公認の遊郭である。江戸の男の望みはお伊勢参りと遊郭で遊ぶことだと言われるほど、男たちにとって魅惑的な場所だった。

はじめは日本橋葺屋町の外れにあったが、明暦3(1657)年、大火の後に、浅草・浅草寺北に移された。客の大半は武士だったが、次第に町人主体となっていく。また、参勤交代で江戸に上った地方の武士たちにとっても、1度は行ってみたい場所となっていた。

客が高級遊女の花魁を呼び、幇間や芸者も一緒に酒や肴を振る舞って豪遊すると、一晩で現代の価格にして1000万円もかかったという。かの紀伊國屋文左衛門には、吉原大門を閉めて貸し切りにし、千両箱数個を使い切ったという伝説がある。また、江戸の材木商・奈良屋茂左衛門もこれに負けじと散財したそうだ。

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