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イチ早く「一条天皇退位」見据えた"道長の非情" 失態繰り返す伊周を横目に道長が通った相手

東洋経済オンライン / 2024年9月8日 8時0分

京都・東福寺(写真: ogurisu_Q / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第35回は伊周の失態と、一条天皇退位に向けた道長のエピソードを紹介する。

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伊周の傲慢さは「小心」の裏返し

状況が悪くなると、焦燥感からとんでもないことをやらかしてしまう。どうもそんな傾向がある人物だったらしい。藤原道長にとっては兄の息子、つまり甥にあたる藤原伊周のことだ。

【写真】一条天皇の退位を見据えて道長は行動に出る。写真は道長ゆかりの京都・東福寺の五大堂同聚院

伊周は摂政・関白となった父・道隆によって引き上げられて、一時期は道長を抜くほど出世したが、父が病死すると、道長が内覧・右大臣へと昇格。出世で道長に抜き返されたのは、傲慢な伊周への反発が宮中で高まっていたことも要因の1つだったようだ。伊周本人にその自覚があったのかどうかは怪しい。

この段階ではまだ挽回できたのに、伊周は花山院に矢を射かけるという前代未聞の事件を起こし(「長徳の変」)、居合わせた弟の隆家とともに、処分を受ける。

花山院に矢を射かけたのは、自分の意中の女性のもとに、花山院が通っていると思い込んだからだ。ところが、実際に花山院が通っていたのは、伊周が好きな女性の妹だったというから、あまりにも間が抜けている。

傲慢なふるまいとは裏腹に、伊周には事態を悪いほう、悪いほうに考える小心さがあったのだろう。それゆえに、風向きが悪くなると、暴走してしまう。人生を自らの手で台無しにすることは、このときだけではなかった。

強運の持ち主だった伊周

伊周が強運の持ち主だったことは間違いない。「長徳の変」で完全に失脚したかと思えば、道長の姉で一条天皇の母である詮子が病に伏せたため、その回復を願う恩赦で罪が許されて、京に戻ってこられた。

しかも、伊周の妹・定子は愚かな兄の不始末のせいで出家したにもかかわらず、一条天皇の心をとらえ続けて、懐妊したうえに、3人もの子を出産。

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