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人はなぜ身分と学歴をまとう者にだまされるのか フランス超エリート校の廃止が持つエリートの意味

東洋経済オンライン / 2024年9月8日 9時0分

確かに面接が重要視される試験においては、それとなく醸し出す立ち居振る舞いで合格は決まる。

フランスのエリートがもつ身分制時代の貴族的気風は、こうして学歴主義の時代になっても残存していったというわけである。

ただもう1つ重要な問題が残っている。それは、入学する出身者の階層の問題だけでなく、こうした文化資本をもって卒業したエリートが、現在のAIデジタル化時代の中で進展する社会の発展の中で、果たして有能なエリートたりえるのかどうか、という問題だ。

同じ問題は、フランスのみならず、イギリスでもアメリカでも起きている問題だ。学歴エリートは、近代社会になって生まれた身分制度から業績主義への変化の中で生まれたものである。

昔のエリートは今のエリートたりえるのか

その前提は、人間の知能や業績は明々白々と計測できるという信念によって裏付けされている。それまでの身分制が崩壊した後、その間隙を縫って生まれたのが学歴主義である。

身分制が崩壊した後の社会をどう運営するのかというときに、学歴主義が身分制に取って代わったのだ。入学難関な大学、合格難関な国家試験をパスしたものは「優秀であるに違いない」という発想が、近代社会の秩序を支えているといってもいい。

身分制社会が資本主義社会の業績主義に耐えられなくなって、次第に姿を消していったように、新しいこの学歴主義も新しい時代の要請に対応できるわけではない。その1つの問題が、文化エリートの教養が今の社会システムの急激な変化についていけなくなっていることがあげられる。

そうなると、学歴エリートは「素材としての頭のよさ」を保証するだけのものにすぎないのかもしれない。となると、頭に古典を詰め込んだ教養主義など無意味となる。

その意味で、皮肉なことだが、もっとも進んだ近代主義国家は日本なのかもしれない。日本はフランス以上の学歴至上主義の国家だからである。

学歴は勉学を意味するのではなく、試験の成績だけを意味する。高度な学術的知識など二義的なものにすぎない。だからこそ、日本では高度な教育を学ぶために大学院に進学するものがあまりいない。

日本で学歴という言葉から意味するものは、諸外国と違い、どのブランド大学を出たかということだ。ブランド大学を出たものは、学識は別として、素材たる頭がよいとされている。

素材がエリートの資格であるというのだ。それは大学でなくとも、高校や中学でもいい。ブランド小学校に入ったことも、ある意味、高学歴を意味することになる。

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