一条天皇の最期「定子と彰子」誰に想いを残したか 死ぬ間際に読んだ和歌にある「君」は誰なのか
東洋経済オンライン / 2024年9月15日 7時0分
彰子がどんな女性だったのか。それがわかる史料は乏しい。だが、残した和歌からも、柔らかな性格が伝わってくる。
彰子の出産から遡って3年前の寛弘2(1005)年10月に、敦康親王の石山詣が行われると、父の道長や母の倫子、祖母の穆子、妹の姸子が同行することになった。当時、17歳だった彰子は妹の姸子にあてて、こんな和歌を贈っている。
「人をのみ 思ひやるまにこのごろは 関に心の 越えぬ日ぞなき」
(あなたのことばかりに思いを馳せるうちに、心が逢坂の関を越えていかない日はないのです)
それから2年後の寛弘4(1007)年に、母の倫子が44歳で末妹の嬉子を出産すると、彰子は、子の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式「産養」を主催。白い織物衣と綾の産着などを母に贈って、道長を感動させた。
「中宮よりこのような贈物があるのは、めったにないことだ。かえって面目が施された。未だ家から立たれた皇后が、母のためにこのようなことをなさったことはない。百年来、聞いたことがない。以前の人は、親の老後に立后されたのである」
(『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』倉本一宏訳、講談社学術文庫より)
いずれの逸話も、まだ自身が身ごもる前のことであり、周囲から世継ぎのプレッシャーをかけられるなかでも、常に自分以外の誰かを気にかける、彰子の思いやり深さがよく伝わってくる。
その一方で『紫式部日記』では、式部から漢文を教えてもらいたがる彰子の様子が描かれている。彰子は唐の詩人・白居易の『白氏文集』をリクエストしたという。幼少期から漢文に触れて、側近からも「好文の賢皇」と評された一条天皇に、少しでも気にかけてもらいたいと、彰子は密かに日々心を砕いていたのだろう。
そんな彰子だから、24歳で夫の一条天皇を亡くしたときの悲しみは深かった。寛弘8(1011)年の出来事であり、一条天皇は32歳でその生涯を閉じている。
藤原行成の『権記』によると、一条天皇がいまわの際で、力を振り絞って最後に詠んだのは、こんな和歌だった。
「露の身の 風の宿りに君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」
この「君」とは誰のことなのか。
行成は「成仏し切れない定子を置いて、自分だけが成仏するのは悲しい」と解釈したようだ。
一方、道長の日記『御堂関白記』では「事ぞ悲しき」のところが「ことをこそ思へ」となっており、道長は最期にそばにいたのが彰子だったことから「一条天皇は彰子を置いていくことが心残りだった」と解釈している。
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