江戸時代の武士が利用した「介護休暇」の驚く中身 老親介護をバックアップした江戸時代の「休暇制度」
東洋経済オンライン / 2024年10月29日 17時0分
原文には「以御憐愍看病之御暇被下置候様」などとあり、看病断の一種であると考えられます。ただ上役への届け出書によると、急に現場の上役に願い出たのではなく、事前に孫兵衛の関係者から藩の重役に申し出があって、すでに協議はされていたようです。申し出が認められ、孫兵衛が祖母の看病をしたところ、すぐに快方に向かったようで、5日後に現場に戻ったとのこと。つまりケアを理由とする休みの取得日数は5日だけでした。
こうした看病断に該当する制度とその運用の記録は、幕府をはじめ、広く実施されていたようで、既存研究によると幕府のほか、弘前、八戸、盛岡、秋田、仙台、米沢、勝山、新発田、小田原、松代、高崎、拳母(ころも)、沼津、徳島、久留米の諸藩で制度化されていたといいます。
武士の「近距離介護」
武士が看病断を取得した事例の一つに、秋田藩(佐竹家)の藩士であった「渋江和光(しぶえ・まさみつ)」が記していた『渋江和光日記』があります。和光は53歳で亡くなりましたが、24歳から49歳までの約25年にわたって日記を書き続けていて、それが現代まで残っているのです。
藩士といっても渋江家は代々秋田藩の家老職を務める由緒ある家柄であり、自家でも家臣団を抱える藩の最高幹部です。ただ渋江家には直系の宗家と分家があり、家老を輩出しているのは宗家の側で、和光が生まれたのは分家でした。
渋江和光は1791年(寛政3年)1月14日、渋江家の分流である「渋江光成(みつなり)」の長男として生まれました。そのままいけば和光も分家の当主となったわけですが、宗家の当主が病気になって余命いくばくもなくなり、加えて宗家には跡継ぎとなる男子がいなかったため、和光が13歳のときに急遽宗家の養子に入ります。
これはかなり急だったようで、養子に入った時の宗家の主は「渋江敦光(あつみつ)」でしたが、この人が亡くなるのは1803年(享和3年)6月20日であり、和光が養子に入ったのは同年6月12日。わずか一週間ほど前です。通常、こうした家の存続だけを目的として、現当主が亡くなる直前に慌てて養子縁組をしても認められないことが多く、渋江宗家についても、慣例に従えば知行召し上げとなっても仕方なかったといえます。
しかし渋江宗家は藩の特別な計らいにより、和光を当主として家名が存続しました。先祖である「渋江政光(まさみつ)」が大坂冬の陣で戦死しているので「先祖抜群之戦功」であり(この時から約190年前の出来事ですが)、さらに1778年(安永7年)に秋田藩のお城である久保田城が焼失した際、渋江家の屋敷が「仮御殿」になった点を配慮したとの旨が、秋田藩の公式文書として残っています。
24歳のときに親の介護に直面
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