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江戸時代の武士が利用した「介護休暇」の驚く中身 老親介護をバックアップした江戸時代の「休暇制度」

東洋経済オンライン / 2024年10月29日 17時0分

渋江宗家の跡を継いだ和光の知行高は2962石(1811年〔文化8年〕時点)であり、これは秋田藩の中でも最上位層に位置する石高の多さです。ただし跡を継いだときは13歳の若年であったため、実父である「渋江光成」と、親族である「荒川宗十郎」の2名が「加談(補佐役)」を命じられています。なんとか無事に宗家を継いだものの、和光は亡くなるまで、宗家の先祖の多くが就いてきた家老職にはなれなかったようです。

ともかくも宗家に養子に入って偉くなってしまった和光でしたが、日記を書き始めて間もない24歳のときに、親の介護に直面します。実家に住む実父・光成が、1814年(文化11年)10月6日に、中風を再発して倒れてしまったのです。その日の日記には、以下の記述があります。

「九ツ時少過根小屋かゝさまより御使者にて、親父様中風御当り直しにて御勝不被成候故、早々参候へと申来候故、……」
(正午過ぎに根小屋の母から御使者があり、親父様が中風を再発してしまい、体調が宜しくありません、早々に参られたしとのお知らせがありましたので、……)

文中にある「根小屋」とは和光の実家のある地名であり、久保田城の南側に広がる武家屋敷街の一つである「東根小屋町」を指します。先述の通り、和光は分家である渋江光成の家を継ぐはずでしたが、13歳のときに渋江宗家の養子となりました。そこで和光の代わりとして実家では、和光の妹の夫であり、秋田藩士の宇都宮家から迎え入れた婿養子・「渋江左膳光音(さぜんみつね)」が光成と暮らしています。この人は和光と近しい間柄で、「左膳」と呼ばれて日記にも頻繁に登場しますが、光成が倒れたとの知らせを受けた日、和光はこの左膳と一緒に夜を徹して光成のケアに当たりました。

そして翌7日、和光は五ツ半時過(午前8時過ぎ)に東根小屋町の実家から宗家に戻っています。一晩ずっと実父の傍にいて、朝になってから帰宅したわけです。宗家は東根小屋町の通りを北に進み、堀・門を通った先の三の丸の一角にあり、およそ500メートルほどの距離です。和光は自宅に戻った後、午前11時頃からひと眠りして午後1時頃に起き、午後2時には再び実家に行って、午後10時過ぎに帰宅したと日記に記しています。

「看病断」の申請手順

翌10月8日には、倒れた光成の様子から介護が長期にわたると判断したのか、藩に対して「看病御暇申立」を行っています。ここでいう「看病御暇」とは、先に触れた「看病断」=介護休暇に該当するものです。和光は1807年(文化4年)から1837年(天保8年)まで、途中間が空くものの、延べ23年にわたって家老に次ぐ役職である「御相手番」を務めました。実父が倒れたときはこの職に就いていた時期に重なります。そのため看病御暇を取る旨は、職場の同僚である「同役衆」に対しても回文(回覧板のようなもの)の形で通知しています。

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